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未来へ進めば進むほど、過去に戻りたくなる。ナニワ英語道ブログは細々と続けていきたい。中三の日記(14歳ほやほや)。4月17日、長兄が筆を手に野球ゲームを作った。見事だった。「兄は、一度つくり出すとなかなかやめない。僕はこの点を兄の長所だと思っている」 兄の創った野球ゲームを色鉛筆で写し、日記に貼っている。5月2日、その数日後、私も思い出したように「相撲ゲーム」をつくった。この日の日記に、「場所の前置詞一覧というのを絵と一緒に書いた。............英語の前置詞兄の教訓を受ける」 兄弟仲がよかった。ゲーム感覚が「絆」となった。弟の篤弘や妹の幸子がいつも、私の創ったゲームに集まってきた。そして、近所の子も、「みっちゃん、寄せてぇ--」と集まってくる。 私にはもう一つの顔があった。それは格闘家としての「ぼく」であった。近所の草相撲では無敵。横綱。夜、米島という男が私に挑んできた。いくら投げても投げても、かかってくる。得意のやぐら投げでたしか相手を40回ぐらい投げた。一度も投げられてないから、近所で横綱という面目を保った。その様子を絵日記に書いた。公認の試合ではないから、行司はいない。私の当用日記だけが行司であった。
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最近つくづく考える。「血ィは争えないね」(Character is destiny.)と、亡母がよくいっていた。亡母は、死ぬまで日記を書き続けた。 指が曲がるまで書き続けていたから、「行」に近い。絵日記の一部を出版してもいい、といった底意(ハラ)もないから、動機の純粋性でいえば、私よりも母の方が上だ。今年、辰年の私は年男になる。再び狂い咲くつもりだ。
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12月18日のD-DayをDeathcember 18(死を覚悟のD-Day)として、再び100名集めに挑戦してみた。失敗すれば「切腹」―― professional suicide ――。大失敗すれば、「成敗」(こちらは不名誉)になる。古希の祝いと同じく、高いハードルを課した。その主催者を20代前半の若者たち(青年紘道館)にした。周囲は無謀だといった。しかし、断じて私のワンマン処世術を通す。日本の将来を動かす若者に賭けている。 かけつけてくれた二人のインターン(中村、小川)には、実に頭の下がる思いがする。ノーネス、FMレインボータウン、「ドランゴン松の遠吼え」ブログ(服部チーフ)、夕刊フジのアシスタントとして裏で支えてくれている。 今どきの大学生はと低く見ていたが、彼らの「プロから芸を盗もう」という脂ぎった執念と意識は、私に新たなる活力と自信を与えてくれた。12月18日のイベントも、当然のごとく手弁当でかけつけ、結集して私を支えてくれた。 金で返せないのなら、教育で返えせるとまで言い切った。この一年間、私を信じてついてくれる。かたじけない。いくらこき使っても、喜んでついてくるから恐縮する。来年は国際ディベート学会(INDA=International Debate Negotiation Association、竹村事務局長)が正式に発足する。
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ドラゴン松は、ドラ桜を意識した、ニックネームだ。私が気に入っている「エンゼル・バンク」は、30代で転職するなという。大卒後の10年間は、転職は一回、ぎりぎりで2回と述べている。唸った。 その通り、私の人生も20代が勝負だと思っている。脱サラし、インターオーサカに入り、その後再び脱サラし、30歳の頃にアメリカ大使館に仕官できた。やはり人生にもリズムがある。
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ブログを毎日書き続けることは、ワープロ編集者がいるかぎり負担ではない。「ドラゴン松の遠吼え」が好評で、時事英語部門で常に人気No.1を保っている。 夕刊フジの連載が、毎週月曜日と決まってから、日本語の見出しをいかに英語に同時通訳するか、新しいchallengeが始まった。 30歳の頃、米大使館に始まったプロ同時通訳者としての経験が役に立っている。ナニワ英語道は、今の私を過去の私に結びつける役を担うことになりそうだ。歴史は腐らないから、自由日記のノリで書ける。(つづく)
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1月20日 と日記に書いてある。痛かった。しかし逃げなかった。 担任の大喜多先生が私の絵日記を評価してくださった。朱字(ペン)でこう書かれている。 「毎日根気よく、ねっしんに書けています。大そうよいことです。これからもこの調子でかいて下さい」 私の絵日記は小学校、中学校の教員室の中でも話題となった。中学の頃、絵日記が展示され、金賞を貰った。学校の成績はよくないのに、絵日記はいつも話題をさらっていた。今やIT時代がたけなわ。ブログの時代を迎え、小中学校の頃の絵心が戻った。
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この頃から私はノリのいいタイプだった。坂東妻三郎ことバンツマは、私のあこがれのスターだった。今でも古畑任三郎の主人公(田村正和が演じる)を見ていると、彼の父のバンツマを思い出す。 英雄の映画を観るとすぐに演じたくなる。浅草の木馬館で大衆演劇を見て、男の涙を流すのも、小学校の頃から変わっていない。ところで、民主党の海江田が泣いたので白けた。男の涙は、決して自分のためには流さない。こんな義侠心は父ゆずりだろう。その父を影で支えたのは母だった。母を中心に私の小・中時代は展開した。岡町は町ではなく、村、そして広場だった。この広場でリーダーが育った。
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1月8日、ぼくは影法師のえいがをみたので、さっそくみんなをあつめて影法師ごっこをした。ぼくはばんつまになった。あいては六人ほどでぼくは一人だった。しばらくしていると、とってもつかれたのでやすもうとすると、ぼくのお兄ちゃんがきて、そんなものするよりドッチボールをしようといったので、影法師ごっこをやめて、ドッチボールをした。 (チャンバラゴッコでは近所で一番強かった私。この頃から私はいつでもリーダー。ロール・モデルに弟子入りして、ご本人になりきるのが私の行動パターンだ。)
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1月3日、けふでお正月がおわったので、うんとあそぼうと思った。まづ朝のうちからおべんきょうをした。勉強がすんでから外へ出ようかと思うと、ぼくの家の前でいぬが「キャンキャン」とほえていたので、そばえよると、きん所の子どもたちが犬をいじめていたのでぼくはえんしょうのピストルをもって、どうぶつをいじめるのは、だれだ、というと、みんなもうしない、といって、それからみんなで犬とあそんでやった。 (弱いものいじめはしない、という私のモットーは、小学生の頃から守ってきた。強い相手には牙をむく、という今の私の反骨精神もこの延長にある)
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夏休みから引き続いて絵日記を毎日書いた。プリントも一所によく勉強した。けれども、まだまだ勉強をしなくてはならないと思った。社会のしけんびは、ノーベル賞をもらった湯川博士のことを小川とかいたりした。それで有名な人はよく人のお話や新聞などにきおつけて見たりはっきりとおぼえることだと思った。 梅花のお兄ちゃんに、きくと宮森先生にずっと前に教へられた湯川博士のおくさんとのこと。「ホホウ、えらいことをやりましたなア」と言われたそうだ。それなのにぼくは、小川とかいてしまった。又、ぼくのすんでいる土地を本州なのに、四國とかいてしまった。お母ちゃんに見てもらったら、自分の住んでいる所ぐらいしっかりとおぼえておくようにと言われた。これからは社会のことをちゅういしておぼえておこうと思った。 科学の本もかってもらった。これもうれしかった。これからもますますべんきょうしようと思った。 (勢いがつくと、いつまでも書き続けている...unstoppable...気性は小学4年生の頃に顕れていた。日記を書いていて、そして残してよかった。当時の今は亡き母そして兄、弟、妹、近所の仲間たちといつも仲が良かった頃が懐かしい)
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