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『何人もの人達と』「何人もの人が 今 僕をうらんでいるだろう 何人もの人が 今 僕を疑っているだろう 何人もの人が 僕を指さし ・・・・・・・・ かげ口を 言い合っているだろう 何人もの人を 僕は うたがっているだろう 何人もの人を 僕は うらむようになるだろう 何人もの人と 争いつづけるだろう 何人もの人と 心きづつけ合うだろう でも たしかに ボクには信じている 人がいる 確かに ボクを 信じてくれている人もいる 人の心の空しさに 心うばわれないで 信じあえる人と 手をとって生きよう 今さら 何をボクは 人の事を気にしてしまったんだ ああ もう 今は この耳をふさいでしまおう ああ もう 今は この口をとざしてしまおう 人の言葉の空しさに 心をうばわれないように」 英五さんの唄には、争い、対立の唄がいくつかあります。 それらの唄は、最終的には、仲直り、平和を求める唄が多いように思いますが、 この『何人もの人達と』 は、合わないものは合わないと割り切るような唄です。 理想を求めすぎるより、割り切らなければならない時もあるのかなあ〜って、思う。 全面的平和を求めるのは理想なのかもしれません。 「信じあえる人と 手をとって生きよう」 と同感する部分もあります。 「人の心の空しさ 心うばわれない」 そう思うこともあります。 しかし、今日行くライブのあらい舞さんは、 全面的平和を祈って、祈りの唄を唄います。 頂いたコメント 奇妙な勉強会 いとー1125さん 今月十日に書いた「奇妙な勉強会」の話を思い出しました。 http://blog.livedoor.jp/kyoseidb/archives/50584288.html 相手を理解し、自分のことも相手にわかってもらうために、できる限り歩み寄っていく一方で、わかってもらえなかったならば、「人の言葉の空しさに 心をうばわれないように」することも大切ですね。 それにとらわれて、一番大切な自分を見失うことがないように・・。 (2007年02月23日 23時13分19秒) 人の言葉の空しさ ゴッドギャンブラーさん ご無沙汰しております。僕は英伍先生が「何人もの人達」を割り切られた詩ではないと思っております。 心も言葉も空しいものであります。どちらも刹那的なもので悲しみのさなかでもそれを忘れ笑ってみたり、お詫びを口にしている最中でも腹が立ってきたり、人間の心も言葉も本当に一瞬のものであります。 人の言葉や人の思いを気にするというのは、そう言った一瞬の心や言葉に対する判断なのではないか、また言葉になって表面化されていない心も見ずに判断を下していたんじゃないのか? 真実の心を聞き取れない愚かな私の耳はふたをして、真実の心を理解せずに怒りを吐く愚かな口にチャックをして疑わず、恨まず、争わず、心傷つけぬようにしよう。 今は内面的にも信じ合える人と手をとって生きよう。 いつか自分の心が全ての人と信じ合える素晴らしい心に育つ事を願って・・・・と仰有っているように僕には思えるのですが。(2007年03月05日 11時09分20秒) Re:人の言葉の空しさ(02/23) @たれぱんだ@さん ゴッドギャンブラーさん、解説ありがとうございます。 >いつか自分の心が全ての人と信じ合える素晴らしい心に >育つ事を願って・・・・と仰有っているように僕には思えるのですが。 『何人もの人達と』が他の唄と違い違和感を感じていましたが、 ゴッドギャンブラーさんの言われるように解釈すると 他の唄と一貫性があります。 英五さんの奥深さを感じます。 割り切った方が楽だという私の甘さがありました。 このブログを始めて理由が私自身英五さんの唄の趣旨がわからないので、 何かヒントを頂けないかでした。 ありがとうございました。(2007年03月05日 11時49分53秒) |