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2011年07月22日
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                                           おうしょうくん                      はくきょい
                          王昭君  (其1)     白居易

     おもて  み     こさ    びん  み     かぜ     まゆ  ざんたい  き   かお  べに  き
   面に満つる胡沙 鬢に満つる風。   眉は残黛  鎖え  臉は紅 鎖ゆ。

   しゅうく しんぎん  しょうすい  つ           じょこん  かえ   が と   うち  に
  愁苦 辛勤して?? し尽くれば。   如今 却って画図の中に似たり。
   (胡沙=胡は保区報の異民族の住んでいる地域。沙は砂漠の砂)。

  詩文説明
漢を離れてはるばる胡(えびす)の地に来れば、顔は砂漠の砂、塵にまみれ、ほつれて鬢は風に乱れる。美しい眉を描いたまゆずみも、豊かな頬にさした紅も、いつしか色あせてしまった。悲しみ、苦しみのため、げっそりとやせ衰えてしまい、今の姿は、皮肉にもあの醜い肖像画そっくりになってしまった。

  王昭君
本名は王?(しょう)。のちの晋の文帝(司馬昭)の諱を避けて名君とも呼ばれる。(牆)とも書く。
前漢の元帝(前49~前33在位)の後宮にいた。この当時、匈奴の王、単于呼韓邪が、漢との縁組を求めた。そこで元帝は王昭君を呼韓邪に与え、その絶世の美女に大喜びした。

(元帝の後宮には宮女が多く、画工に肖像画を描かせて、帝はそれを見て呼び寄せていた。宮女たちは画工に賄賂を贈って実際以上に美しく描かせたが、王昭君はひとり賄賂を贈らず、醜く描かれてしまった。そこへ匈奴の王、呼韓邪単于が元帝と講和し、漢の宮廷の美しい娘を妃にほしい、と申し入れてきた。

元帝は一番の不美人を贈ろうと肖像画を見て王昭君を選んだ。いよいよ暇乞いのとき、元帝は、王昭君をはじめて見て絶世の美女なので仰天し、思わず吐息をもらした。約束を違うことも出来ず王昭君は異国の胡へ呼韓邪単于とともに漢を後にした。元帝は怒り心頭、賄賂を貰っていた絵師たちは不正を働いたかどにて極刑となった)。王昭君については色々説があります。

王昭君
1、王昭君の絵は後宮の室で描かれたものでしょう、と思いますが、興が過ぎまして王昭君のお墓の前で王昭君を立たせ絵師も立って肖像画を描いてる図を作成してます。        2、王将君掛軸


王昭君 白楽天
1、上の掛軸をカラーに仕立ててます。 2、王昭君は馬上の人となって単于とともに立ち去っていく。 (テレビ漢詩紀行)。    3、白楽天像

作者 白楽天(772~846)
西暦772年(中唐時代)に河南省新鄭県に生まれる。名は居易・字は楽天、酔吟先生・香山居士は号である。代々地方官僚で家は貧しかった。日夜学問にはげみ16歳で詩を作って、詩壇の長に認められた。王昭君の詩は17歳の時の作。   28歳の時,地方試験に及第、都長安に出る。翌年進士に、更に上級試験を2つ突破、35歳で高級官僚コースを歩む。

社会諷刺の作を次々に創作新風を巻き起こした。誰にでもわかるやさしい詩を主張、白居易は詩を作るごとに一老婆に聞かせ、それが理解できるまで改作したという。常に官職につき刑部尚書(法務大臣)をもって官職を退隠、晩年は仏教に帰依した。長恨歌・琵琶行などの大作あり、日本では承和5年(838)藤原岳守が唐船を検視し、元?・白居易の文集を手に入れ、朝廷に献上したともいう。菅原道真など当時の教養人たちの必読書となり、平安以後の文学に大きく影響を及ぼした。会昌6年(846)75歳で没した。



 

 






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最終更新日  2011年07月25日 21時53分43秒
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