いなむら かいこ だざい しゅんだい
稲叢懐古 太宰 春臺
さてい なんぼう えんぱ き さんぐん こ す
沙汀 南望すれば煙波ひろし 聞きならく三軍 此れより過ぐと。
ちょうすい きらい じんじ あらた くうざん しょうてい せきよう おお
潮水は帰来するも人事は改 まる 空山 迢遞 夕陽 多し
詩文説明
稲村ケ崎の砂浜に立って、南の方を見渡せば、水煙が広く立ち込めている。聞いたところでは、元弘の昔、新田義貞が大軍を率いて、鎌倉幕府を攻め滅ぼしたのは、ここから攻め入ったという。一たび退いた潮水も、また帰り来たって、波は岸辺に寄せているが、人間の世は改まって、武家政治はしっかり定まってしまった。ふと気が付けば、人影もない静かな山々は、はるかに連なって、夕陽は一段とさしこめている。
1、新田義貞画像 2、稲村ケ崎 3、新田義貞は太刀を竜神に捧げて祈る。
※南は稲村ヶ崎の断崖、鎌倉へ繋がる砂浜の道は狭く、北条軍は波打ち際まで逆茂木(棘のある枝・鉄条網の様なもの)で策を作り、海には数千の兵船が矢を構えていて進むことは難しい。義貞は腰の太刀を海中に投げ入れ竜神に船を遠避けて下さいと天皇への忠義心で一心に拝んだ。やがて潮が引き始め船は遠ざかっていき、義貞軍は鎌倉に進むことが出来て鎌倉幕府を壊滅させた。(率いる軍兵を奮い立たせるため、干潮を利用したのでしょう。赤壁の戦いの時の諸葛孔明が東南の風を吹かせたを思い起こさせます)。
新田義貞
鎌倉末期・南北朝時代の武将。朝氏の嫡男。元弘の乱に千早城攻撃に参加したが帰国して挙兵。鎌倉を攻撃して幕府を滅ぼし建武政権から上野・越後・播磨の国司(地方長官)として与えられその武者所頭人となる。足利尊氏の寝返りにより尊氏討伐の大将軍に起用され足利尊氏と対立。1335(建武2) 足利方の防禦陣を次々と突破し東海道を東へ下り箱根竹の下で戦って敗れたが、京都で戦いついに尊氏は九州へ敗走した。翌年尊氏は九州から少弐・大友・島津を初めとする九州の豪族を味方にして態勢を整え、大軍を率いて博多を出発、勢いを増して兵庫に達した。義貞軍は兵庫の海岸で戦い大軍となった尊氏軍にまたもや破れる。皇太子恒良親王を奉じて北陸に下り、越前金崎によったが足利軍の猛攻を支えきれず落城。脱出して再挙をはかったが、1338(延元3・暦応1)藤島で斯波高経と戦って討死にした。(流れ矢に当り自害)
1、後醍醐天皇から北条氏追討の綸旨が届き挙兵する図。
2、江の島から稲村ケ崎までの地図。
3、七里ヶ浜と江の島 (江の島にわたる橋の上から富士山が見えます)。
稲村ケ崎を挟んで由比ヶ浜と七里ヶ浜。新田軍は由比ヶ浜から幕府軍を攻める。
1、鶴岡八幡宮に東にある屏風山の中腹の東勝寺跡の東北隅に高時らが腹を切ったとい
う「腹切り窟」がある。北条9代の栄華もここで終わりを告げた。
2、太宰春臺画像。
3、四十二間筋兜(義貞の兜)。江戸前期明暦3年(1657)燈明寺畷の水田から発掘された
鉄製の兜。義貞所用の兜とされている。万治3年(1660)越前藩主松平光通が同地に
「新田義 貞戦死此所」の石碑を建てた。明治に藤島神社が建てられたが後足羽山中腹
に移された。
4、北条高時木像
※ 新田義貞の出来事は唱歌となって親しまれた。題名「鎌倉」
1、七里ヶ浜の磯伝い 稲村ケ崎名将の 剣投ぜし古戦場。
2、極楽寺坂 越え行けば 長谷観音の堂近く 露坐の大仏おわします。
3、由比の浜辺を右に見て 雪の下村過ぎ行けば 八幡宮の御社。
7、歴史は長き七百年 興亡すべて夢に似て 英雄墓は苔蒸しぬ。 作者 太宰春臺(1680~1747)延宝8年~延享4年
徳川中期の儒者、名は純、字は徳夫。通称弥右衛門、幼名は千之助、春臺は号。別号を紫芝園という。延宝8年,信州飯田に生まれた。先祖は織田信長を諌めて死んだ平手政秀で、父の太宰言辰は飯田候(堀氏)に仕えていたが、春薹が幼児の時、禄を離れて江戸に移った。春薹は、はじめ中野い謙について朱子学を修めたが、後に徂徠の門を叩き、徂徠の才学に悦服し、ついに旧学を捨てて古学に向かった。進退には必ず礼を以てし、己を屈げて進をいさぎよしとせず、徂徠門の子路をもって任じた。詩文よりも経学を好み、沼田候に封事を上ったこともある。音曲にも通じ、笛の名手であったという。延享4年(1747)5月30日病没した。享年68。主著に『論語古訓』『古文孝経』『朱子詩伝』などがある。 |