森田童子




■いま、ぼくの孤独な夏休みが始まろうとしている・・・・■
━━”狼少年”森田童子━━


「人はそれぞれ崇高な孤独を持っていればいい。」

ぼくが愛してしまったともだち
ぼくが愛してしまった小さな喫茶店
ぼくが愛してしまった街並や曲がりくねった路地
もうすぐ終わる
ぼくが愛してしまった時代よ
                         森田童子(昭和54年)








目にしみるぞ
 青い空
 淋しいぞ
 白い雲
 ぼくの鳩小屋に
 伝書鳩が帰ってこない
 もうすぐ ぼくの背中に
 羽がはえるぞ
 朝の街に
 ぼくの白いカイキンシャッが飛ぶ
 
 母よぼくの鳩を撃て
 母よぼくの鳩を撃て
(「伝書鳩」)




都市は密集し、巨大化された私達の街は
急速に管理化されています。
私達が子供の頃、空き地や空家は、そして路地は
唯一のわたしたちの遊び場でした。

....夜になっても遊び続けろ。



太宰治の遺作である『グッドバイ』と同名のタイトルで森田童子はデビューしました。

「……ある意味で彼女の本質的な孤独、人間存在の淋しさ、郷愁への冷徹な視線が凝縮された作品であると言えよう。早川義夫が日本人男性シンガーの最も重要なキーマンであるなら、女性シンガーの最も重要かつ神聖な位置に森田童子は存在し、このファースト・アルバムは、その基本となる聖書のような作品であった。……JOJO広重」



<’80年6月 池袋・文芸座ル・ピリエ>

学生運動の末、中退してしまった
同じ大学の同級生だった若い夫婦がいます。
男のひとは職業を転々と移り変え
どうやら最近小さな出版社の営業マンとしておちついたそうです。
今は、少し不便だけれども、都心から離れた団地に住みついて、5才になる男の子となんのへんてつもなく平和に暮らしています。
子供が宇宙戦艦ヤマトが好きで、近くの映画館へ日曜日に、「さらば宇宙戦艦ヤマト」を見て、子供を連れていったことも忘れて、2人は泣いてしまったそうです。
「さらば宇宙戦艦ヤマト」を見て
ふたりは赤いヘルメットの
学生時代を思い出していたのです。




「今は、ただの情念を燃やすだけでは救われない。
 私たちの青春っていうのはよかったんだよねって、
 たとえ錯覚であっても義眼の中の感傷であっても、
 そう思いこむことでしか救われない。
 メリーゴーランドやポピーの花のようであった
 七年前の私たちを愛せなくて、
 なぜ七年後の私たちを私たちが愛せるだろうか?
 だから、今私は、私たちの過ぎていった青春たちに歌いたいんです。
 愛をこめて、・・・・・・静かに、
 ・・・・・・とても静かに・・・」




<青春の春...爛漫>

森田 童子(もりた・どうじ)1952年(昭27)1月15日、東京生まれ。学園闘争で高校を中退。
72年一人の友人の死をきっかけに自作自演で歌い始める。
七十年代を駆け抜けて、八十年代の到来とともに潔く去っていった伝説のシンガーソング・ライター森田童子。近いところでは、1993年、野島伸司さんの大ヒットしたTVドラマ「高校教師」の主題歌として、彼女の「ぼくたちの失敗」が、話題になりました。 カーリー・ヘアにミラー・グラスというスタイルで、決してサングラスを外さない人でした。 森田童子は、ライブ・ハウスを拠点に活動を続け、当時、最盛期を経て、その華やかな成功と同時に衰退の始まりを示していた小劇場運動(寺山修司・唐十郎さんたちですね)に微妙に連動しながら、あくまで自分を貫き通し、去っていきました。 1975年のデビューから1983年新宿ロフトでのライヴを最後に活動休止するまでに6枚のオリジナル・アルバムと1枚のライヴ・アルバムを発表した。



春の木漏れ日の中で君の優しさに
埋もれていた僕は
弱虫だったんだよネ





「友だちの死を知って他の仲間たちのことを考えたとき、
 強く蘇ってきた詩の一節があるんです。
 ”ぼくたちは 同じ場所で/もう二度と逢うことはできない”っていう。
 無色でしかなかったあのころの景色が、
 原色でパノラマのように見えてきて、
 張りつめて壊れやすかったあのころの思いが、
 もう一度自分の道を照らしてくれそうに思えて・・・」




森田童子の歌は女性でいながらすべて“ぼく”という一人称から歌が始まり、”君は”で問いかけ回想する。

「“ぼく”や“君”という男性語には、固定した男女関係じゃなく別の、
 数人の仲間うちだけで通いあう思いやりや優しさがあって、
 それはあの時代の仲間たちが求めていた
 優しさや思いやりであったと思うんです。
 それに、私の気持ちを表現するのに一番自然だとも・・・」



-ouji suzuki-

1枚目「グッドバイ」から3枚目の「ア・ボーイ」では主に少年期の視点で歌われ、「さよならぽくのともだち」、「地平線」、「センチメンタル通り」、「ぼくたちの失敗」「海を見たいと思った」、「G線上にひとり」、「ぼくを見かけませんでしたか」など一生涯忘れ得ない森田童子の純度の高い傑作が多く作詞作曲されている。これらの文学性の高い歌詞には、過ぎ去ったはずの青春期、少年期に何か忘れ物でもして来たかのような言うに言えない淋しさと切なさがあり、等身大の人間の孤独と苦悩、自分と同じ感傷を表現してくれているという優しさに今尚シンパシーを感じてやまない。森田童子のどこまでも純化を希求してやまない”感傷”は私にとっては純粋感傷”(と呼びたい)であり、この”純粋感傷”は、実はやはり”女の優しさ”であり”おかあさんの優しさ”であり、この優しさに満ち満ちた青春時代を過ごせたことを、森田童子のコンサートの場に一緒にいた前妻直子さんに感謝する。森田童子を教えてくれたのも直子さんでした。
森田童子の声にはフォークミュージック時代の終わりを感じさせる脆弱なものがあったように、森田童子も永遠に活動に終止符を打った。一人の友人の死をきっかけに歌い始めた鎮魂歌は、聴く者の、自分の青春を美化するには余りあるものを残して。また、年老いてゆく自分の父親や母親にも青春時代があったことにも思いを馳せてもらいたいとなぜか思う。(笑)ラストアルバムのタイトルは「狼少年」である。現在は主婦で活動を再開する意思はまったくない。



「ぼくたちの失敗」

春のこもれ陽の中で 君のやさしさに
うもれていたぼくは 弱虫だったんだヨネ

君と話し疲れて いつか 黙り込んだ
ストープがわりの電熱器 赤く燃えていた



地下のジャズ喫茶 変れないぼくたちがいた
悪い夢のように 時がなぜてゆく

ぼくがひとりになった 部屋にきみの好きな
チャーリー・パーカー 見つけたヨ ぼくを忘れたカナ
 


だめになったぼくをみて 君もびっくりしただろう
あの娘はまだ元気かい 昔の話だネ

春のこもれ陽の中で 君のやさしさに
うもれていたぼくは 弱虫だったんだヨネ




<’76年10月10日 筑波大学17号棟105号>

尾崎放哉という大正時代の俳人がいます。
36才の時、働くのがいやになった放哉は、職をあっさり捨てると、
以前から放哉の希望だった無人のお寺を、方々に捜し歩きました。
結局、放哉は小豆島にある小さなあき寺に、
ひとり坊さんとして住みついたのですが、
それからの放哉の生活ぶりは、
元来の怠け癖と持病の結核に苦しみ、
挙句、朝夕の食事にも事欠く有様だったと云われています。
寝たきりの放哉は、病苦と孤独と空腹に悩み、
布団の中から膨大な数の手紙を書いては、知人に送っています。
その手紙の内容は、お金と餅の無心ばかりだったそうです。
放哉は、42才と云う若さで、短い生涯を閉じたのですが、
尾崎放哉が遺したものに、こんな句があります。

せきをしてもひとり




「あの時代は何だったのですか
あのときめきは何だったのですか
みんな夢でありました
みんな夢でありました
悲しいほどに
ありのままの君とぼくが
ここにいる

ぼくはもう語らないだろう
ぼくたちは歌わないだろう
みんな夢でありました
みんな夢でありました
何もないけど
ただひたむきな
ぼくたちが立っていた.....
(「みんな夢でありました」)




ekato

....さよならぼくのともだち
 (´-`).。oO



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■....後編に続く。■




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