友川かずき


美貌の魂!魂は時に絶叫する!友川かずき

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撮影・鈴木真貴氏

「友川かずきのうたが胸にしみいるとしたら、君は幸せだと思え。涙があふれたら、君は選ばれた人間だと思え。君にもまだ無償の愛に感応する心が残っていたのだ。無償の愛がまだ人の世に存在すること、それこそが友川が身をもってあがない、あかしてくれたことなのだ。
 友川よ、久しく会わないが、元気か。
美貌にかげりはないか。酒量は落ちないか。私は君がよき友人たちに恵まれていることを知っている。その数は世の中の人の数よりは少ないが、一人の男が持つ水準をこえることはるかであることを知っている。」(大島渚)



「東北の詩人たちは限りなく世の中に拗ねてみせるが、また時にかぎりなく甘えてみせる。友川にはその両方がない。友川はテレ笑いをするということがない。そのことが世の中をとまどわせる。友川のあの大きな目でみつめられ問いかけられたとき人びとがとまどうように世の中はとまどう。
そうだ、あれは目というべきものではない。目玉なのである。誰しもがとまどう。ルドンの目玉にとまどうように。」(大島渚)

~大島渚監督は友川かずきに映画『戦場のメリークリスマス』への出演を依頼したのですが、あまりにもひどい訛りでボツになったということです。結局その役はご存知のように坂本龍一が努めました。



『やっと一枚目(1975)』
青春/友川かずき
75年 作詞・友川かずき 作曲・友川かずき

パチンコ店の パチンコ店の前を
ギターをぶらさげて 明日と一緒に歩いているのは
あれは俺じゃないか
何というしけた格好して 何という情無い顔をして
意気地なし! 意気地なし! おいもっと頑張れよ

ツルハシを ツルハシをもって
トラックの荷台で 牛乳呑んでいるのは
あれは俺じゃないか
何という青白い顔をして 何という陰気な顔をして
意気地なし! 意気地なし! おいもっと頑張れよ

苦しいのは みんな苦しいんだぜ
淋しいのは みんな淋しいんだぜ
悲しいのは みんな悲しいんだぜ
おいもっと頑張れよ

川崎の 川崎の四畳半で
包丁を朝から 包丁を朝から研いでいるのは
あれは俺じゃないか
疲れたからって 夢を輪切りにして
口惜しいからって 自分を細切れにして
ああそれでも ゴキブリ一匹殺せないじゃないか
殺せるなら殺してみろ! 殺せるなら殺してみろ!

愛ひとつ 淋しさひとつ 空ひとつ 苦しさひとつ
悲しさひとつ 雪ダルマひとつ 人生ひとつ 夢ひとつ
笹舟ひとつ 勇気ひとつ 八郎潟ひとつ 涙ひとつ 故郷ひとつ
おじっちゃ ひとつ 東京ひとつ 
青春ひとつ



☆友川かずきプロフィール☆
友川かずきは、フォークシンガーであり、詩人であり、画家であり、競輪解説者兼パチスロ評論家であり、日本のオリジナル・パンカーの最重要人物、また単なる酔っ払いでもある。普段の友川かずき氏は、端正な顔立ちで寺山修司以来の東北訛りが色濃く残りトツトツとしゃべる物静かな人物であるが、ひとたび歌いはじめると、人格がまるごと変わってしまう。酒を飲んでいるためだ。酒を飲まなければ人前で歌えない。友川氏のライブでは、たちまちにしてウィスキー一本が空いてしまう。泥臭さい秋田訛りまるだしでギターをかき鳴らしうたう絶叫はまさに咆哮に近い。それは、すごい迫力で、歌うというよりポエトリー・シャウティングする、「吠える詩人」とでもいうべきもの。やがて歌声はヴィブラードしてゆき、その唱法には彼の情念が渦巻き強烈かつ独特で、その与えるインパクトは他に類がない。絶叫なのに表情は少しも変わらず淡々としていて、友川の美貌には遜色がない。友川の叙情的かつ激情的な唱法は音楽的指向はあまり感じさせないが、圧倒的な<声>の存在感、カ強く鋭角的なギターのカッティング、そして文学性の高い歌詩は、誰にも真似ようのない世界であった。ニューミュージック全盛の時代にはあまりにも衝撃的だった。彼の音楽は正に友川以外の何ものでもない、正にワン&オンリーの世界だ。



中原中也『骨』

ホラホラ、これが僕の骨だ、 
 生きてゐた時の苦労にみちた 
 あのけがらはしい肉を破つて、
 しらじらと雨に洗はれ、                 
 ヌックと出た、骨の尖。 
 
 それは光沢もない、 
 ただいたづらにしらじらと、 
 雨を吸収する、 
 風に吹かれる、 
 幾分空を反映する。
  
 生きてゐた時に、 
 これが食堂の雑踏の中に、 
 坐つてゐたこともある、 
 みつばのおしたしを食つたこともある、 
 と思へばなんとも可笑《をか》しい。
  
 ホラホラ、これが僕の骨―― 
 見てゐるのは僕? 可笑しなことだ。 
 霊魂はあとに残つて、 
 また骨の処にやつて来て、 
 見てゐるのかしら? 

  ふるさと
 故郷の小川のへりに、 
 半ばは枯れた草に立つて、 
 見てゐるのは、――僕?
 恰度立札ほどの高さに、
 骨はしらじらととんがつてゐる。

       詩集『在りし日の歌』より

本名及位典司(のぞきてんじ)。昭和25年(1950年)2月16日、秋田県山本郡八竜村(現在は八竜町)に農業及位清の次男として生まれる。目立ちたがりやの少年で、仲間の注目を集めるために、毛虫を呑んだり自分の小便を舐めたりしたという。中学校時代は歌手・舟木一夫にあこがれる野球少年。勉強嫌いで文学にも無縁だったが、ある日、図書館で中原中也詩集の「骨」を目にして衝撃を受け、自分でも詩作を始める。どことなく太宰の面影を感じさせる彼は文学的指向が強く、中原中也の詩に曲をつけたアルバムも発表している。能代工業高 校建築科に進学。教科書は開かず、文学書の乱読とバスケットの練習に明け暮れた。太宰治と小林秀雄に激しくひかれた。
彼の詩は時に文学的で、時に自虐的だ。



中原中也『サーカス』

幾時代かがありまして
  茶色い戦争がありました

幾時代かがありまして
  冬は疾風吹きました

幾時代かがありまして
  今夜此処でのひと盛り
    今夜此処でのひと盛り

サーカス小屋は高い梁
  そこに一つのブランコだ
見えるともないブランコだ

頭倒(さか)さに手を垂れて
  汚れた木綿の屋根のもと
ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん

それの近くの白い灯が
  安値(やす)いリボンと息を吐き

観客様はみな鰯
  咽喉(のんど)が鳴ります牡蠣殻(かきがら)と
ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん

屋外(やがい)は真ッ暗 暗(くら)の暗(くら)
夜は劫々(こうこう)と更けまする
落下傘奴(らっかがさめ)のノスタルジアと
ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん

『俺の裡で鳴り止まない詩-中原中也作品集』(1978年)
作詩:中原中也 作曲:友川かずき 編曲:J.A.シーザー

<曲目> サーカス/臨終/湖上/歸郷/桑名の驛/夏の日の歌/汚れちつまった悲しみに /春の日の夕暮/六月の雨/坊や

戦後日本の代表的な作家であり中也と交流があったことでも知られる大岡昇平を「凄い歌手」と驚嘆させたという。



高校卒業後、日本橋の婦人服卸問屋に就職したが、六ヶ月で退社。秋田訛りがひどく気になり、トイレに隠れて「いらしゃいませ」「ありがとうございました」を練習した。自意識過剰の男が接客に向くはずもなかった。その後、友川かずきと名前を偽って練馬の飯場にもぐり込む。及位という本名を笑われるつらさからだ。現在の芸名、ペンネームは、この時初めて使われた。以後、新聞配達、労務者、旋盤工、喫茶店のボーイ、クラブ歌手と、転々とする。



上京後、職を転々とするかたわら、URCレコードでのアルバイトを通し、あがた森魚と知り合い、中津川フォーク・ジャンボリーに参加。その後、故郷に一度帰るも再び上京、そこで恩人・宇崎竜童と出会う。彼の尽力によりシングル「上京の状況」や「生きてるって言ってみろ/人生劇場裏通り」をリリース、これを機に頭脳警察や寺山修二とも親交を深めた。



二十歳のころ、行きつけの赤提灯で岡林信康の歌を聴いた。「山谷ブルース」「チューリップのアップリケ」「手紙」.....何かがグサリと胸に突き刺さって涙が出て止まらなかった。友人からギターを譲り受け、それまで作詞した詩作に曲をつけ、歌うようになった。
1974年3月「上京の状況」でデビュー。続いて「生きているって言ってみろ」を出すが、ニューミュージック全盛の時代、全く、といっていいほど売れなかった。



DVD『ピストル-渋谷アピア・ライヴ 2003』
1. ピストル
2. サーカス
3. 桑名の驛
4. あやかしの月
5. エリセの目
6. 似合った青春
7. 訳のわからん気持
8. メダカざんまい
9. この世を踊れ
10. ジャン・ジュネに訊け
11. シシャモ
12. サトル
13. 夏の日の歌
14. 死にぞこないの唄
15. ワルツ
16. また来ん春
17. デラシネ(新曲)
(ボーナストラック)
18. 生きて死ぬという(新曲)



友川カズキ(vo, g)、石塚俊明(ds, perc)、永畑雅人(p,mandlin, accordion)



3枚目『千羽鶴を口に咬えた日々(1977)』

<飾絵:クマさんこと篠原勝之>

『生きてるって言ってみろ』作詞・作曲:友川かずき 編曲:J・A
・シーザー
ビッショリ汚れた手拭いを
腰に結わえてトボトボと
死人でもあるまいによ

自分の家の前で立ち止まり
覚悟を決めてドアを押す
地獄でもあるまいによ

   生きてるって言ってみろ!
   生きてるって言ってみろ!
   生きてるって言ってみろ!

淋しさ優しさ苦しさは
この世のせつないメロドラマ
屠殺場でもあるまいに

ヒッピーフーテン乞食の子
なげきの喜びいじくって
廃人でもあるまいに

   生きてるって言ってみろ!
   生きてるって言ってみろ!
   生きてるって言ってみろ!

夢と現実ぶらさげて
涙と孤独を相棒に
コケシでもあるまいに
長髪マンネリいさぎ良さ
根っこの太さはどこへやら
墓石でもあるまいに

   生きてるって言ってみろ!
   生きてるって言ってみろ!
   生きてるって言ってみろ!



オープニングテーマ/生きてるって言ってみろ/殺されたくないなら殺せ
記憶 /どうした /なまはげ /俺のふるさとは犬の中にもある /八竜町の少年達
乱れどんぱん節 /家出少年 /死にぞこないの唄



<編曲:J.A.シーザー >

JA(ジュリアス・アーネスト)・シーザー(本名:寺原孝明)
1948年宮崎県に生まれ。 ’69年に寺山修司と出会い、彼の主謀する劇団”天井桟敷”に入団。シーザーの音楽は、独学ながら当時のサイケデリックやプログレの要素含んだ中で、複雑なリズムや転調の多用、和楽器を取り入れてエスニックな要素までも引き出し、すでに独自の音楽を完成、寺山修司の世界を音楽面で構築した。’83年、寺山修司の死によって、天井桟敷は解散。劇団”万有引力”を立ち上げる。



- 篠原勝之 紅テント ポスター -

篠原勝之(しのはらかつゆき)は、北海道胆振管内室蘭市出身の芸術家。溶接オブジェを得意としていて、自称「鉄のゲージツ家」と名乗る。愛称は「クマさん」。タレントとしても活動。









<画:友川かずき>

また、趣味で描いていた絵が美術評論家に認められ、1985年の個展を皮切りに、全国各地で精力的に個展を開き、中上健次・立松和平・石和鷹・藤沢周ら多くの芸術家たちから惜しみない賛辞を浴びた。
「友川かずきの絵画は見者の特権である愉楽と悲惨のなかに見る者を突き落とす。」 (中上健次/作家)
「東北の血筋ならばや清澄の水、かずきよイーハトーブの宇宙想いき」 (福島泰樹/歌人)









三上寛・友川かずき『御縁』(PSFV-2/ビデオ)
1994年5月7日 日本青年館大ホール
ボーカル&アコースティック・ギター:友川かずき
ボーカル&エレキギター:三上寛
ベース:吉沢元治
ピアノ:明田川荘之
サックス:梅津和時
パーカッション:石塚俊明
ピアノ&アコーディオン:永畑雅人



ワン・アンド・オンリーな2人のライヴ・ビデオ。フリージャズの吉沢元治や頭脳警察の石塚俊明を向こうに回してのインプロ・バトルを繰り広げつつ歌い叫ぶ肉弾戦。流行を超えた、アシッドフォークな70分が収められている。したがってバックは、日本のアシッド・ミュージシャンであるジャズメンが務めるよりない。
・「サーカス」…作詩:中原中也/作曲:友川かずき 収録
・「私の花」…作詩:永山則夫/作曲:友川かずき 収録



<競輪に耽溺する友川かずきの著作>



『競輪生活-バンクの風に吹かれて』



『友川かずきの競輪ぶっちぎり勝負』



秋田生まれのシンガーソングライター友川かずきが作詞作曲した「海のそばで殺された夢」は、ちあきと出逢ってしまった友川に創る必然があった。友川と出逢ったてしまったちあきなおみにはこの歌を選択し、唄う必然があった。そして私には聞く必然があった。それだけである。
 これほど心凍らせる唄を私は知らない。
 この「海のそばで殺された夢」は賛否両論を巻き起こした「夜へ急ぐ人」のシングルB面として昭和52年9月発売された。歴史的CD-BOX「ちあきなおみ・これくしょん ねえあんた」(2000年6月発売)でCD化されるまで、永く中古レコードのプレミア盤として在った。

「海のそばで殺された夢」

月夜の晩に 夢を見たよ
海のそばで 殺された夢
その時 僕は 泣いていたよ
みじかく 青い あの春を
黒い波にもまれ もまれて
やがて きれいな 海の底へ
やさしくゆれて むかえておくれ
海の藻よ 僕を 殺してくれた人
とても穏やかな 顔立ちの人
その時 僕は 叫んでやった
しがらむ すべてに 「ありがとう」と
生まれて このかた
こんなに 素直になれた僕は
初めてだろうな
よかったな よかったな
やさしくなれて 生きてるうちに



 ちあきは、深夜TVで唄う友川を偶然見て、友川に楽曲の依頼をしたという。中島みゆきの書き下ろし「ルージュ」に続くシングル発売であり、ちあきの脱歌謡曲としての方向性を求める真摯な姿勢がうかがえる。人間のナマの声を発することができるアーティスト達の饗宴が見られる。



撮影/山木明子氏

 幻の傑作「夜を急ぐ人」について、奥崎和仁氏は解説で
 「ちあきが初めてこの楽曲を披露した時、担当のテレビディレクターも驚愕し、唖然としたという。
ちあき自身が発案したというそのパフォーマンスは、それまでのちあきにはあまり見られなかった感情をあらわにしての歌唱や、髪を振り乱し、全身や顔の表情、手の先まですべてを使い表現する、あまりにも斬新なものだった。曲の中に眠る、主人公の叫び、焦燥感、孤独などをちあき自身がすべて請け負い、自分の内面からすべて吐き出してしまうような、新たなちあきがステージの上にたっていたのだ。しかし、その表現方法にはディレクターも観客も度肝を抜かれてしまったらしい。」と述べている。
 この「夜を急ぐ人」は紅白歌合戦で披露されるのだが、その度肝を抜くパフォーマンスは白組司会者に「なんとも気持ちの悪い歌ですね」とコメントされたが、ちあきは舞台袖でしてやったりとばかりに舌を出した。・・・かどうかは知らない。
 一方、この「夜を急ぐ人」「海のそばで殺された夢」の楽曲提供に関して友川は
 「いつだったか、新宿で、ちあきなおみのライブを聞き、彼女が唄ったジャニスジョプリンの歌、その声の凄まじさに、私はずっと鳥肌がたっていた。あとにもさきにも、そのような経験はなく、ジャニスも私は好きで高校時代からよく聴いていたが、本家にさえ、それは感じたことがなかったのである。どこにも、何ににも、それはまるで例えようのない、声、と言うより他はないのだが、その在りかに少しでも身を近づけようものなら、たちどころに首が吹き飛んでしまう、という、聴く側にもある種の覚悟が要る、声、であった。」と語り、さらに「意志と狂気のある声、その持ち主は、きっと歌手になるずっと前から歌手で、待たれて待たれて、歌に辿り着いたに違いない。」と述べている。



撮影/山木明子氏

 ちあきは友川の詩曲の採用について『日本の女の狂乱を感じてもらえるとうれしい』と語っているという。またこの頃ある雑誌で『乙女にも娼婦にも変身できる女性、三枚目もやれる歌手として今日まで来た。器用貧乏的な感じで歌ってきたのね。だから逆にちあきなおみには何かがなかった』と語っている。まさに表現者としての自信に満ちた韜晦である。
それにしても、『紅とんぼ』で表現される演劇的空間の構成力・表現力の巧みさには舌を巻く。中島みゆきの「夜会」の1年前に「LADY DAY」という一人舞台があるという。ビリー・ホリデーの最後のステージを再現したものという。想像しただけでも身震いする思いである。



いまだ切れば血の出る情念フォークを歌いつづけている友川かずき。初期の友川の世界は同じ東北の青森県五所川原出身の三上寛のそれに似たものであった。これは、これこそ「怨歌」である。関西や九州に生まれた地方人と違って、東京にコンプレックスを持っている東北人が歌う逆上したかのような「怨歌」は多くの人間にダサイ暗いとバカにされその滑稽さを嗤われ、頭狂人の地方人に対する優越感を増幅させたが、井戸の底に石を落としても落としても水音が聞こえてこぬ現代、聴こえて来るのは頭狂人のエゴを嗤らう彼らの哄笑か?

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