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テーマ:ART<千年の愉楽>(22)
カテゴリ:ART<千年の愉楽>
『巴里に死す』佐伯祐三併映は!『悲喜劇 佐伯祐三真贋事件』 <郵便配達夫(1928)> パリのうらぶれた裏町を憑かれたように描き続け、結核とともに狂気の淵に立ち、わずか30歳の若さで逝った天性の画家・佐伯祐三。パリでヴラマンク、ユトリロらの野獣派の巨匠の影響を受けながらも、パリ裏街の店先や広告などを素材に選び、量感あふれる、激情的な作風を確立。ヴラマンクとの邂逅は日本から持ち込んだアカデミスムとの訣別でもあった。 しかし、画家としての純粋さを追及してやまない壮絶な生きざまの裏面に隠された秘密があった?! (中河与一『形式主義芸術論』昭和五年) 「赤い色を愛した、多少黒ずんだ。黄い色を愛した、毛糸のような。そして彼は、何よりも東洋人の強い黒を愛した。私は彼の絵を思ふと、彼が生きてゐる事をハッキリと感じる。彼はあの情熱にみちた赤と黄と黒の画面で私達に話しかける」 <カフェ・レストラン(1928)> 私が初めて佐伯祐三を識ったのは、大学を卒業して就職活動も就職もせずモノ書きの真似事のような事をしてた時代のことでした。アンダーグラウンドに身をおいていて長髪、挑発的なことばかりしていました。(笑)アルバイトのビラ配りをしていて偶然、佐伯祐三のアトリエを見つけた時からです。現在の新宿区中落合にアトリエ付の家はありました。目白駅の近くで、磯崎新の豪邸も近くにあったと思います。佐伯祐三が大正から昭和初期に活躍した日本洋画界を代表する画家であることは知っていましたが、どんな絵を描く人なのか興味をそそられて図書館へ足を運び、大きな画集のページを捲りました。私が初めに好きになった佐伯祐三の絵が上の<郵便配達夫(1928)>です。まずは鮮明な赤と黒にうたれ、見開らかれた眼の強さに惹かれました。後に佐伯祐三が結核で病床にあり、喀血し完全に病床に就く直前の絵だということを知り、郵便配達夫は崩れかける体勢を懸命にもちこたえるように見えたのも頷けました。郵便配達夫というより老人の見開かれた眼には、佐伯祐三の生にたいする欲求、叫びが込められているかのようです。 <広告(ヴェルダン)(1927)> 佐伯祐三の描く巴里の裏街の絵は、まさに”巴里の絵”そのもの! (横光利一) 「佐伯祐三の絵は外人が巴里に感心した絵ではなく、日本人が巴里に驚いた表現である。同一の自然も見る眼に依って違う違ふことの事実は、分かりきったことである。誰もそれに気付かぬだけだ。佐伯祐三氏は最初にそれに気付いた画家の一人である。 (中略)日本人が巴里を見た眼のうちで佐伯氏ほど、巴里をよく見た人はあるまいと思ふ。」 <自画像 22歳 1920年> 【佐伯祐三】(さえき・ゆうぞう1898-1928) 1898年(明治31年) 大阪に生まれる。中学在学中から赤松麟作の画塾に通う。 1917年(大正6年)上京して川端画学校で藤島武二の指導を受けた。翌7年東京美術学校西洋画科予備科に入学。 <佐伯祐三のライフマスク 1925年> 163cmの身長、体重50キロほど。静かで蒼白な表情のなかに沈んだような眼をしていたという。 在学中にのちの妻となる池田米子(のちの画家、佐伯米子)を知り、1920年(大正9年)二十二歳で結婚。現在の新宿区中落合にアトリエ付の家を新築。 1923年(大正12年)美術学校卒業後、兄事する里見勝蔵を頼って渡仏。 ヴラマンクを訪ねて強い刺激を受ける。1924年(大正13年) パリ、オーヴェール・シュル・オワーズに<裸婦>を持ってヴラマンクを訪ねる。 「アカデミスム!」と批判を受け、この時の衝撃は生涯の指針となる。 <自画像(1917年 19歳)> 滞欧中の1925年(大正14年) 第18回サロン・ドートンヌに「コルヌドリ(靴屋)」「煉瓦屋」などを出品して入選。 <下落合風景 1926年> 昭和元(1926)年に帰国後、アトリエを設けた下落合周辺。 V字に交わる坂道の交差地点から広い空を背景に奥へと続く家並みが描かれ、空に向かって突き出す電信柱、垂直のラインを意識した構図が採用されており、新しい様式を見出そうとする意欲が感じられる。1926年(大正15年、昭和元)帰国。里見勝蔵、前田寛治らと「1930年協会」を結成。第1回展を開催。 同年第13回二科展に滞欧作を発表、「レ・ジュ・ド・ノエル」などで二科賞を受賞。 しかし、日本の風土が自己の画風に合わず、1927年(昭和2年)再度渡仏。1927年 第20回サロン・ドートンヌに入選。 『立てる自画像』 eastern youth CD『旅路ニ季節ガ燃エ落チル』 世界一のオヤジ風体バンド!坊主・角刈りで、ロッカーという風貌からは程遠い彼らの傑作アルバムのジャケ写にもなったぞ! <ラ・クロッシユ 1927年> パリに渡った佐伯を待ち受けていたのは、野獣派(フォーヴィズム)の巨匠ヴラマンクの「このアカデミック!」という一喝でした。その批判を受けた直後に描かれたという自画像。苦悶する佐伯はパレットを持って立ちつくす。ヴラマンクに「このアカデミック!」と一喝された夜、佐伯が泊った部屋は奇しくも狂気の画家ヴァン・ゴッホが34年前に息を引き取ったまさにその部屋であった。 以後パリ郊外に激しい心情表現を求めて彷徨し、やがてユトリロの街景の影響も受け、佐伯が見い出すのはパリの古い街並みやパリ庶民の生活の醸し出す哀愁でした。 結核の悪化に体力も弱まり、死の影におびえつつも描きあげたパリの場末の街景のなかに見られる沈鬱な叙情性には、その色彩の調和の美しさとあいまってわれわれ日本人の心に洗練された<パリの憂鬱>を歌い上げてくれるかのようです。 <ATGET> 佐伯祐三は明治期に西欧から伝わった洋画を完成した画家のひとりとして位置づけられている。パリで過ごし、パリをモティーフにした完成度の高い作品を描きながら夭折した。若くして異境の地で病死した悲劇的な短い生涯、激情的で、メランコリックな感情あふれる画風でパリの街景に独自の絵画世界を求めて描きつづけた。 <カフェのテラス(1927)> (芹沢光治良「巴里に死す」~最も早く佐伯の画業を評価した文人) 「ああ、しかし、巴里とは何と魅惑的な都会でせう。(中略)ホテルの窓側に掛けて、ぼんやり外を眺めてゐると、巴里にゐるのだといふだけで目頭が熱くなった。雪も降ってはゐないし、霧もおりてはゐないが、垂れ込めた空に黄昏のやうにけむった街に、街路樹が枯れて形骸を寒々しくさらして、佐伯祐三の絵になっているのに、この和らぎは何処から感じられるのかしら。」 <ガス灯と広告 1927年> <広告(ヴェルダン)1927年> <人形(1925)> <ロシアの少女 1928年> 室内での最後の作品のひとつが、トップの《郵便配達夫》であるが、佐伯にはもはや絵にサインをいれる気力すら残ってはいなかった。 「郵便配達夫」を書き上げてから、寝たり起きたりの日が続き写生に出るのもかなわぬようになっていた佐伯を訪れたロシア人のモデルは色鮮やかなロシアの祭りの衣装を着てきた。鮮やかな色彩に触発されたのか直裁で明快な力強い筆致が見られる。ロシア人のモデルはロシア革命で母と亡命した身の上を語り、この荒いタッチの絵を見て「悪いときには悪いことが続くものだ」と呟いたという。この言葉に暗示されたかのように間もなく佐伯の病状は日増しに悪化していった。肺結核に加えて、精神錯乱に陥ることがたびたび見られるようになっていた。 そのような重い病状をおして、佐伯はブーローニュの森で行き倒れるという失踪事件を起こしパリ郊外のエブラ-ル精神病院に収容されてしまう。病院に送られるとき、佐伯は米子に「さようなら。日本の皆さんによろしく。絵を持って帰り、悪いのは焼いてください」と言ったという。それが最後に妻と交わした言葉だった。 1928年(昭和3年) パリ郊外にて客死。享年30才。 6歳の娘、弥智子も2週間後、同じ結核で父の後を追う。 ■12月3日の後編に続く!■ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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