テーマ:社交ダンス(8377)
カテゴリ:アートのはなし
東京駅丸の内口にある三菱一号間美術館で開催されています『ラファエル前派の軌跡展』に行ってきました。
月曜は通常休館なのですがゴールデンウィーク中の今日はやっていたんです。 練習場も休みだし大将は一日中寝ていたい様子でしたので一人で出かけました。 ラファエル前派の展覧会は何度か行ったことがあり、是非ともこの絵が見たいとかいう御目当てがあったわけではありません。 ビクトリア王朝時代の英国絵画は割と好きなジャンルですので何か面白い発見があったらいいなくらいの気持ちでした。 ジョン・ラスキン(1819-1900)は、この時代の代表的な美術評論家です。 この展覧会はラスキンの生誕200年記念というのがメインテーマだったようで、彼が支援した芸術家たちの作品を集めた形になっています。 ジョン・エヴァレット・ミレイ『ジョン・ラスキンの肖像』(1853年) ラスキンが13歳の時に読んだ詩集の挿絵として、ターナーのナポリ湾(怒れるヴェスヴィオ山)という絵を見たのがターナーを知るきっかけだったようです。 J・M・ ウィリアム・ターナー『ナポリ湾(怒れるヴェスヴィオ山)』(1817年頃) 自分がフェルメールを好きになった経緯に似てるなと思って印象に残りました。 ラスキンはやがて挿絵の元となったターナーの絵を手に入れて、生涯手元の置いていたとのこと。 著書の中で、ターナーの変化する新しい表現方法を擁護し、自らもたくさんの素描を残しました。 ジョン・ラスキン『モンブランの雪 ー サン・ジェルヴェ・レ・パンで』(1840) ラスキンは山の絵が多かったですね。 自然をありのまま、しかも細心な注意を払って対象の細部までを描きこむことを理想としていたようです。 ラファエル前派のコーナーは写真撮影OKでした。 19世紀のイギリスではラファエル以降の絵画表現を追い求めるロイヤル・アカデミーが芸術の中心でした。 それに対抗する形でロセッティ、ハント、ミレイたちは、前衛芸術集団ラファエル前派同盟を1848年に結成します。 世間から酷評された彼らの芸術をラスキンは高く評価して、彼らと親交を持つようになるんです。 ウィリアム・ホルマン・ハント『誠実に励めば美しい顔になる』(1866年) ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ『魔性のヴィーナス』(1868年頃) ラスキンはこの絵に『描写が雑だ。』と文句をつけ、それに対してロセッティは3回も描き直したのだそうです。 どうも最後までラスキンを納得させることはできなかったみたいですが、私には雑には見えませんけどね。 ジョン・エヴァレット・ミレイ『滝』(1853年) 親しくなってミレイと一緒に旅行に行ったラスキンは、そのせいで奥さんのエフィーを取られちゃうんですよ。人間関係が複雑に絡み合ってて、少女漫画のネタになりそうでした。 この絵に描かれている女性がそのエフィーです。 まだラスキンの奥さんだった時のようですよ。 ラファエル前派は1860年代に入るころから唯美主義の方に流れていくんですが、ラファエル前派周辺として紹介されていたフレデリック・レントンの絵がこの中では一番気に入りました。 フレデリック・レントン『母と子』(1864-65年) レントンはイタリアやフランスで学んだのちロンドンにもどりラファエル前派のメンバーと交流しました。 でもそのあと対抗するロイヤル・アカデミーの会員になって、なんと会長職にまで上り詰めてしまうんですよ。 しかも男爵の爵位が授けられた翌日に心臓発作で死亡したことで貴族最短期間記録保持者なんだそうです。独身貴族だったので継承者がいなかったんですね。 エドワード・バーン=ジョーンズ『慈悲深き騎士』(1863年) この絵の騎士は、兄弟を殺した男に復讐しようとしますが慈悲を乞われて許すんですね。 騎士がイエスの像の前に祈りを捧げていると、神が十字架から降りてきて彼をハグしたという伝説があるらしく、それを題材に描いた作品です。 ウィリアム・モリスとバーン=ジョーンズはオックスフォード大学で出会い、ラスキンやラファエル前派の影響を受けて芸術の道を志します。 バーン=ジョーンズはラスキンを師匠と仰いで絵画の道に進み、モリスは詩人・デザイナーとして頭角を現しモリス商会を設立して美しい家具や壁紙などを手がけるようになりました。 『アーツ・アンド・クラフツ運動』を主導したのがこのモリスなんですね。 予想以上に面白かったです。 この展覧会は2019年6月9日までです。詳しい情報はこちらから。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2019/04/30 06:16:55 PM
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