若竹千佐子さんの「おら おらで ひとり いぐも」が、芥川賞をとりました。
ちょうど、読み終わったばかり。
74歳、一人暮らしの桃子さん、内から湧き上がってくる東北便の無数の「柔毛突起ども」。
来し方を思い、行く末の老いに向うかう、
「いま・ここ」の桃子さんの原基の層からほとばしるこころの言葉。
私の中で、響いている言葉たちのエコーです。
人の心には何層にもわたる層がある。
生まれたでのあがんぼの眼で見えている原基のおらの層と、
後から生きんがために採用したあれこれのおらの層、
教えでもらったどいうか、教え込まされだどいうか、
こうせねばなんね、ああでねばわがたねという常識だのなんだかんだの、
自分で選んだと見せかけて、選ばされてしまった世知だのが付与堆積して、
分厚くなったそうがあるわけで、
つまりは地球にあるプレートどいうものはおらの心にもあるのですがな。
もう今までも自分では信用できない。
おらの思っても見ながった世界がある。
そこさ、行ってみって。
おら、いぐも。 おらおらで、ひとりいぐも。
桃子さんという人は人一倍愛を乞う人間だった。
… 人を喜ばせたいという気持ちも強かった。
その為に人が自分に何を要求しているかに敏感だった。
そのよう急に合わせていかようにも自分を作って行けるような気がした。
人が桃子さんに求めたのはなんだったか。 やさしさ、従順、協調性。 いつでも“どうぞ”。
いつか桃子さんは人の期待をいきるようになっていた。
結果として、こうあるべき、という外枠に寸分も違わずに生きてしまったような気がする。
周造は惚れた男だった。 惚れぬいた男だった。
それでも周造の死に一点の喜びがあった。
おらは独りで生きてみたがったのす。
思い通りに我れ力で生きてみたがった。
あのどきにおらは分がってしまったのす。
死はあっちゃにあるのでなぐ、おらどのすぐそばに息をひそめでまっているのだずごどが。
それでもまったぐといっていいほど恐れはねのす。
何故って。亭主のいるどころだおん。
何故って。待っているがらだおん。
おらは今むしろ死に魅せられでいるのだす。
どんな痛みも苦しみもそこでいったん回収される。
死はおそれではなくて解放なんだす。
これほどの安心ほかにあったべか。
安心しておらは前を向ぐ。
おらの今は、こわいものなし。
老いとその先にあるものは、いかな桃子さんであっても未知の領分、
そしてしらないごとが分がるのがいちばんおもしえいごどなのであり、
これを十分に探求し、味わい尽くすのが、この先最も興味津々なことなのだ。
八角山
おめはだだそこにある。なにもしない、だだまぶるだけ。見守るだけ。
それがうれしい。それでおらはおめを信頼する。
おらの生ぎるはおらの裁量に任せられているのだな。
おらはおらの人生を引き受げる。
そして大元でおめに委ねる。
引き受けること、委ねること、二つの対等で成り立っている、おめとおらだ。
亭主を見送って以来、桃子さんは見えない世界があると思ってきた。
今、見えるもの聴こえるものすべてその証左であるように感じられる。
そしておらはその感覚受容体。
水を張った雑巾バケツに映る白い雲、ありがたい。
犬の遠吠え、ありがたい。
左手人差し指のささくれ、ありがたい。
なんだって意味を持って感じられる。
それでも、まだ次の一歩を踏み出した。
ああ鳥肌が立つ。 ため息が出る。
すごい、すごい、おめはんだちはすごい。
おらはすごい
生ぎて死んで生ぎて死んで生ぎて死んで生ぎて死んで…
気の遠ぐなるような長い時間を
つないでつないでつないでつないでつないでつないでつないでつなぎにつないで
いま、おらがいる
そうまでしてつながった大事な命だ、奇跡のような命だ
おらはちゃんとに生ぎだべが
なにか雪解け水のような冷たい清冽な水が、からだにしみていくような感覚があります。
「青春小説」に対して、「玄冬小説」とのこと、一読をお勧めします。