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2008年07月30日 楽天プロフィール Add to Google XML

 『坊ちゃん』のお清
[ 文学/読書 ]    

(3)『坊ちゃん』のお清(1)

○我々に身近な漱石のモチーフ
 翻訳された漱石を読んだ外人が、夏目漱石は「今の作家だと思っていた」が、一世紀も前の作家だと聞かされて非常に驚いたという話がある。それほど漱石の作品は、現代の我々が抱える身近な出会いや悩みがモチーフとなっていることが多いのである。「三四郎」では、様々な価値観の中で近代自我の確立に悩む女性と、その女性に淡い憧れを抱く三四郎を中心に話が展開する。「それから」では不倫の問題を扱っているし、「こころ」は恋愛と友情の板挟みになる「先生」の姿が描かれる。また「草枕」の那美、「虞美人草」の藤尾らは、革新的なギャルの先輩たちとも言えよう。
 今回から、具体的に漱石の作品を取り上げ、主人公との関係・役割(母、妻、恋人、妹など)を考察しながら、現代女性のアイデンティティ・立脚点はどこにあるのか、そしてこれから女性のなしていくべき家庭での役割、社会での役割などを考えていきたい。

○初々しい『我が輩-』と『坊ちゃん』
 私見であるが、漱石初期の長編・中編にあたる『我が輩は猫である』や『坊ちゃん』は、彼の作品の中でも、彼の心情をもっとも率直に反映している作品と言って良いだろう。なんと言っても初期の作品らしい、みずみずしさを感じさせる。特に、これらが一人称で書かれている点が、率直な心情投影といった印象を与える。
 一人称という手法は、主観的な言葉という特色がある。つまり、作者の思うところを述べる上で、手紙や一人語りの形式を使うことで客観性な事実表記を排除し、最初に「これは主観的な、意図的に限定された会話ですよ」と断っておいて、より自由に書くことができるのである。
 たとえば、漱石晩年の佳作『こころ』の後半は、すべて主人公の知り合いである先生からの手紙、という形式をとっているが、これは、人間の心にある矛盾性、友情とエゴイズムの葛藤などを浮き彫りにする上で、主観的な手紙の文章、という形にするのが最も適していたのだと言える。

○意外に重要な「お清」の役割
 さて、『我が輩-』『坊ちゃん』の辺りでは、時代的テーマを持った女性など出てこないように見える。ここに焦点が当てられるのはいわゆる三部作辺りである。両者ともエッセイ風に実体験を天衣無縫に綴ったもので、それだけに哲学的テーマを背負った類型的な人物などは登場しないということだろう。しかし、個性的というなら一人だけ例外があるのである。それは『坊ちゃん』で、主人公の家に十数年来仕えてきたという下女の「お清」である。意外にも、このおばあさんは、うらなり先生のいいなづけである「マドンナ」などよりも、ずっとイキイキと描かれ、作品構成の上でも重要なファクターとなっているのである。
 彼女のキーワードは、母性である。彼女は主人公が気の毒に感じるぐらいに、ある意味愚かしいまでの母性を持って彼を可愛がる。やんちゃで無鉄砲な坊ちゃんのすることが何でも正しいと信じ、いつも黙って彼を受け入れている。実はこのお清という存在が、作品全体に暖かみのある底流となって流れ、この作品を親しみのある名作としているのである。そして漱石は、この母性の固まりのようなお清の姿を深い親しみを込めて描いている。漱石はこのような生き方としての母性を認めていたと言えそうである。(英)

(4)『坊ちゃん』のお清(2)

○意外に重要な「お清」の役割
 漱石の初期、『我が輩-』『坊ちゃん』の辺りでは、自我確立に苦しむ近代女性のような個性的女性は出てこないように見える。しかし一人だけ例外がある。それは、『坊ちゃん』の中で、主人公の家に十数年来仕えてきた「お清」である。このおばあさんは意外なことに、作品構成の上で欠かせない重要なファクターとなっている。
 お清は作品の最初で、「坊ちゃん」の唯一の理解者として語られる。そして終わりに、主人公が「清のことを話すのを忘れていた。」と、お清が死んでしまったことと、その墓が小日向の養源寺にあることを語って、これが作品の結びとなる。つまりこの作品はお清に始まりお清で終わっている。さらに、お清は主人公を坊ちゃん坊ちゃんと言って可愛がる。ほかに坊ちゃんと呼ぶ人が見あたらないということは、このおばあさんは作品名まで決めてしまったのである(漱石が、主人公が世間知らずのお坊っちゃんであるという意味を込めて『坊ちゃん』と名付けたのだという説明を聞いたことがあるが、お清と主人公の心情関係を無視していて幻滅だ)。

○生い立ちとの関わり
 実は漱石自身は、あまり母親との関係が良くなかった。というより、生まれてすぐ養子に出され、養家と生家の間を行ったり来たりするなどの経緯があり、母親から愛された記憶がなかったらしい。漱石の実母は夏目家の後妻であり、漱石は五男の末っ子で母親が四十歳になってからの子供であった。
 「私は両親の晩年になって出来たいわゆる末っ子である。私を生んだ時、母はこんな年歯をして懐妊するのは面目ないと云ったとかいう話が、今でも折々は繰り返されている。(中略)私は普通の末っ子のやうに決して両親から可愛がられなかった。(中略)とくに父からは寧ろ過酷に取り扱われたという記憶がまだ私の頭に残っている。(中略)馬鹿な私は、本当の両親を爺婆とのみ思いこんで、何の位の月日を空に暮らしたものだらう」(『硝子戸の中』)
 最後に「空に暮らした」と言っているのは、それを語っている漱石の心の中に、愛で満たされるはずだった部分が空白になって残っている、という切なさを込めた表現だろう。
 そして、漱石の中にある母のイメージは、「記憶の糸をいくら辿って行っても、お婆さんに見える」とある。漱石の母性への渇望と、僅かに残る母性としてのお婆さんのイメージが合わさって、『坊ちゃん』のお清が生まれたと見て間違いないだろう。

○漱石が見た、生き方としての母性
 漱石は、はた目にも「家庭的には謂はば孤児同然の身の上」(夏目鏡子『漱石の思い出』)だったようである。だからこそ漱石は、母性の必要性を身に染みて感じていた。
 漱石未完の最後の長編『明暗』では、主人公のかつての恋人は清子と名付けられている。「清」という名前は、漱石が心の底で渇望してやまない「妣(はは)」の象徴であったと言えそうである。
 漱石はこの登場人物に対して、古い時代の女性の代表として(あるいは、いつの時代にも現れる前近代的な女性というべきか)その善し悪しはともかくとして深い親しみと憧れを込めている。
 いつの時代にもそうした愚かしいほどの母性は存在するのだし、それは一つの生き方である。善であるか悪であるかはともかく、何と言ってもそれは、私にとって切実に必要なものなのだ。……漱石に聞けばそうした答えが返ってきたに違いない。(英)

夏目漱石の感想文


最終更新日  2008年07月30日 23時16分20秒
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