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2.特攻作戦における員数主義

 後日、ある本を読んでから知覧での疑念が氷解した*1。私は現場指揮官の名誉欲によって起案されたと思っていた旧式戦闘機の特攻は、作戦企画立案部門による非道な命令であったのだ。
 昭和20年3月後半には、沖縄上陸を前に南西方面における米軍の攻勢が強まり、3/26には慶良間列島に上陸し、同日連合艦隊によって天一号作戦が発動された。その作戦時に運用可能な飛行機は3200機であった。
 不思議なことに昭和20年1月末までの運用可能予想機数は1200機! さんざんB29に爆撃されていた日本の工業地帯が2カ月弱で2000機も作る能力を備えていたとは到底思えない。そのカラクリは沖縄決戦が予想されていた2/4に行われた軍令部関係者の研究会にあった。

~以下引用~
 軍令部第一課長・田口太郎をはじめ、寺崎隆治、松浦五郎、大前敏一、寺井義守といった大佐、中佐らは、口々に特攻の大量投入と練習機の特攻機化を言いたて、
「行けばたいてい命中する」
「練習生に練習機で特攻させる研究が必要」

とまで述べた*2。
~引用終わり~


 この研究会で出た意見が方針としてまとめられ、練習用機の特攻使用が決定したそうだ。 この研究会に出席した者はどうやったって特攻機に乗る可能性はゼロであった。どういう神経でこのような発言を繰り返したのであろうか? もしかして本気で練習機による戦果を信じていたのか? いや、決してそういうことはなく、単に威勢のいい言葉を発していただけのような気がしてならない。もしくは官僚主義的な員数合わせ(どのような飛行機であろうと飛行機は飛行機である、爆弾を積んだら特攻機にできる!)から、調子のいいことを言ったのであろう。自分はこの部分を読み、悲しみを通り越して、吐き気を催した。若者の愛国の情に乗じてさんざん死地に赴かせて、自分達は生き延びて戦後の平和を満喫し天寿を全うする。本当にやりきれない。
百歩譲って練習機などを囮に使うことで大戦果を挙げようという考え方もあるかもしれない。それならば研究会でそのように説明、主張するべきであろう。また、搭乗員に対してもそう説明するべきであろう。搭乗員は特攻より惨めな死に方だと感じるかもしれないが、
「自らが身を捨ててこそ他が浮かぶ瀬もある」
と説明されれば、まだマシだったのではないだろうか?
現場では、司令官自身が敵に体当たりできるなんて全く信じていないくせに、練習機で出撃する若者には
「是非敵艦を屠ってこい! 兵器の良し悪しではない、最後に雌雄を決するのは精神力である」
くらいの檄を飛ばしていたような気がしてならなかった。

*1 文春文庫「遙かなる俊翼-日本軍用機空戦記録」渡辺洋二 "本土に空なし"P.29
*2 そもそも昭和18年後半以降は、アメリカ軍の艦船の卓越した防衛能力(VT信管、対空レーダー射撃)や、アメリカ軍の艦船を護衛している戦闘機の能力、搭乗員の技量の差によって、日本側の攻撃機は次々と撃墜されてしまった。特別攻撃でもかなりの機体が敵艦に突入する前に撃墜されたと思われる。しかしながら、練習機に留まらず、フロートをつけた水上飛行機(元々は偵察用の機体)もまでもが動員された・・・
追記:大東亜戦争までの日本海軍組織は軍令部と海軍省から構成されていた。軍令部は実際の兵器の運用、作戦立案、実行を担当し、海軍省は兵器の調達、軍備の充実、予算の獲得などを担当した。現代で言えば、自衛隊の統合幕僚部が軍令部、防衛庁が海軍省にあたる。

夏が来れば思い出す~特攻~
1.知覧にて泣いて、少し考えて怒って
3.身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ
4.美濃部正という男~芙蓉部隊という奇跡~
追記 特攻の本質とは


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