174008 ランダム
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第一話

第一話




 回りに人がいないのを確認すると、おもいきり座席で手足を伸ばした。寝ている間の姿勢がよほど悪かったのか、腰がどうにかなってしまいそうな気分だった。特に痛んだのは首と目で、窓から差し込んでいる昼過ぎの光にようやく慣れた頃には、列車はどこかの駅に停まろうとしていた。まだはっきりしていない目をこすりながら席を立ったのとほぼ同時に完全に列車が停まった。目の前で圧縮空気の抜ける音がしてドアが開くと、外からむせ返るほどの熱気が流れ込んできた。その熱気に圧されたのか、一瞬目がくらんでフラフラとなりながらホームに出た。次に意識がはっきりしたのが改札を出てからだから、だいぶ危なっかしく歩いているように見えただろう。
 完全に気分が良くなるとロータリーになっている駅前の広場を眺め回した。横に立っている看板は、ペンキがかなり剥げ落ちていて枯れ葉のようにめくれ上がっていた。かろうじて読める地図と風景とを見比べながらこの町の事を知った。
 名前は硯海町。住宅地と海に面した倉庫が主な構成のいわゆるベッドタウンだった。振り返ってみると背後にある広場は確かに観光地のような華やかさはなく、喫茶店があるくらいで商店街への入口を除けばほとんど賑わっていなかった。周囲に人影も少なく、下校途中らしい女子高生らが目立つほどだった。……と、今見た女子高生たちが俺の顔をぎょっとした表情で見ていた。
「あの………」
「え?」
「血、血が付いてます。口のとこ」
あわてて手の甲で口を拭った。やや粘りのある赤い雫は確かに血だった。唇でも切ったんだろうか。取れましたと教えてくれる少女に、とりあえず礼を告げた。
「ありがとう」
「い、いえ………どういたしまして」
「ところで……」
「はい?」
少女の顔になんとなく緊張の色が浮かんだように見えた。まあ、見ず知らずの男だし仕方のない事だろう……。とりあえず、余計な事は考えずに質問だけをする事にした。
「この町で泊まれるところってないかな」
「あぁ…………それなら、商店街を抜けたところにある咲見屋って言う旅館があるよ」
「そうか、ありがとう」
歩き出してもしばらく少女はこちらを見ていた。去り際にもう一礼すると少女もつられて礼をしてどこかへ行ってしまった。一応の目的地も決まり、周囲に人もいなくなってしまったので持ち物を確認しようと思ってポケットの中にあるものを取り出した。と言っても皮の財布が一つだけだ。所持金は無理をすれば旅館で二泊ほどできるかと言った程度のもの。不要なものを捨てて財布をポケットへ戻すとまた歩き出した。足は賑やかな商店街へ向って行く。
 商店街人の声や音であふれていた。魚屋や八百屋は品定めする主婦に愛想を飛ばしている。これだけ人が多いせいか、すれ違う人間は見慣れぬ人間にあまり興味を示さなかった。例外としては、商店街を抜けたときに年老いた浮浪者がなぜか悲鳴を上げて逃げていったくらいだろうか。少し気分を害したが、気にせずに左右の道路に目を向けた。
 ここは駅前よりにぎわいが感じられた。居酒屋の赤提灯がいくらか見えるし、何より人が多い。こういうところに来ると、どこか懐かしい気分になる。自分の故郷とまでは行かないが、そう言う気分だ。
 目当ての旅館「咲見屋」は、人が減り始める住宅街との境に建っていた。遠くにその看板を見つけて少し安心した。看板から視線をいつもの高さに落とすと、ふと向こうに立っている人間と目が合った。
「痛っ…………」
その瞬間、よくわからない頭痛に襲われた。顔をしかめて、思わず睨みかえす形になってしまった。しかし、そのとき既に視線の先にいた人はいなくなっていたのだ。
「……………なんだったんだ」
まだ痛みの残る頭を押さえながら歩行を再開した。こういうときは早く休んだ方がいい。旅館の入口は、目の前だった。
 玄関には咲見屋の名を大きく描いた暖簾が下がっており、左には小さな道が中庭に続いていた。おずおずと暖簾をくぐると女将らしき女性が迎えてくれた。宿帳に名前の記入をする。住所………名前は、晴嵐。苗字は豊橋。

・・・

 人は別人にはなれないけれども、別人のフリは簡単にできる。時にはそうせざるを得ない状況におかれる事だってある。今回のように”自分が誰だか分からない”という重大な問題を抱えているときなんかは特に…………




※ 全国に咲見屋さんってあるみたいだけど、実在の咲見屋さんとは関係ございません。

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