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第三話

第三話 初






 次の日の朝は、自然と目が覚めた。しばらく天井を見つめていたが、やがて薄い夏掛けをのけて洗面所に立つ。鏡の中には自分の覚醒しきれていない顔があった。壁の時計の針が早めの時間を指しているのを良い事に、朝の温泉を堪能しようと思って珍しく少し高揚した気分で温泉への小径を歩いた。
 温泉は離れたところにあり、入浴する客は旅館の庭を眺めながら脱衣場へ向かうしくみになっている。丁寧に手入れされているのであろう庭に植えられた清楚な木の葉の間から、朝の光が漏れてくる。光に照らされた庭の隅では、褐色の犬がプラスチックの容器から水を飲んでいた。
 温泉に近づくにつれて湿気を帯びた硫黄の香がすっと鼻に入っていくのはなんとも気持ちいい。脱衣場には数人の客がいた。隅で服を脱ぐと、さっそく中で寝る間にかいた汗を流す。湯船を囲む塀は海に面した部分だけが若干低くなっていて、日本海が一望できるようになっていた。
 数十分後、もういいかなと思って湯から上がり、伸びをひとつした。

・・・

 「いらっしゃーい、今日も来てくれたんだ」
図書館には昼過ぎに顔を出した。今日見る藤花は扇風機で涼をとることはしていなかった。昨日と違う点は、昨日自分が藤花と雑談していた席には樒が座っていることだった。
「樒も講習明けたから来てくれたんだよー。手伝ってくれるって」
「う、うん」
サイダーを飲みながら慌てて樒が頷いた。藤花も同じものを飲んでいた。受付の椅子とコップが二つから三つに増えたあと、女子高生の雑談に参加する事になった。
 時計が鐘を鳴らした頃、藤花が思い出したように本棚の整理をしに行くと言った。少し話し込んでいただけだったが、気付けば鐘は四回鳴っていた。
 今日の仕事は古い新聞の整理だった。
「マイクロフィルムとかだと楽なのにねー」
「まあ、そこまで金持ちじゃないからね。すぐ手に取れる分、そのままの方がいいかもよ?」
藤花は適当なページをめくりながら苦笑する。すると急に真面目な顔になって表紙を見返した。
「あれ……………」
「どうかした?」
「いや、これ昨日の新聞に似てるなーて思ってさ。ほら、こういうの昨日あったじゃん?」
新聞は昭和三十年代のこの地方のものだった。地方のページに殺人事件のニュースが書いてあった。
「殺人事件………?」
「あれ、晴嵐君は知らないかな?昨日、駅で駅員が死んでたんだって」
藤花が受付の方から探し出してきた。確かにそこには硯海駅での駅員変死が報ぜられていた。

 笠弥群硯海町の硯海駅にて駅員が殺害されているのが同僚に発見された。殺害されたのは宮上裕信さん(46)で、現場に血痕等がない事から別の場所で殺害された後駅に何者かが放置したものと見て警察は捜査を進めているが、事件発生当時の駅周辺は人通りの少ない時刻で目撃者もおらず、捜査は難航している。

「そういえばさ」
樒が急に何かを思い出した。藤花も分かったらしい。
「ああ、あれか。あの時は中学生だったっけ?」
「何かあったの?」
「中学生のときにも同じような事件があってね。帰宅は集団で帰宅は何時までってきつく言われるぐらいだったし。もしかして今回も同じ犯人だったりしてね」
「それならかなりの長寿だな。1950年代からだから」

・・・

 帰り道は樒と同じだった。なぜか樒は藤花と話していた時より口数が少なかった。
「そう言えば晴嵐君て、旅館に泊まってるんだっけ?」
「うん」
「こんな街に…まあ自分が住んでる街だけど……どういう用があったの?」
「うーん、何て言ったらいいだろうな……」
記憶喪失の身でどうするつもりもありませんとは言えない。うまく答えられない気持ちを察したのか、樒は片手を上げて止めてくれた。
「ごめんごめん。色々事情はあるよね」
「……まあ、旅だよ。極単純な」
「ふぅん…………でもさ、晴嵐君お金持ってる?」
「いや……正直な事言うと藤花の図書館のバイトを本気で考えだしたかな」
「そうなんだ…………」
そこまで言うと樒は何かを思い出したようにこちらを見た。
「そういえば私の家は下宿だったんだよ。隣町に大学があるから学生泊めてたりした事あるんだって。だからお母さんに相談してみるよ。私の母さんって、良い意味でも悪い意味でもお人好しだから」
「それって、誉めてる?」
「誉めてるし、ちょっと困ったりもする、かな。ははは」
「そうなんだ。…………うん、ありがとう。考えてみる」
考えるとは言ったけれども他に行ける場所はない。樒の母親の器量に任せる事にしよう。どうにもならなかったらか、この町を出るつもりでいたから。
「じゃあ、また明日ね。気が向いたら家に遊びにきてね」
「わかった。じゃあ」
樒は手を振って駆けて行った。
 その姿が角に隠れた時、樒の家を知らない事に気付いた。藤花に聞くしかないだろうか。


 旅館の近くまで戻ってきたとき、何故か懐かしいような気分にとらわれた。そんなに長く住んでるわけでないのは自分がよく知っている。木の塀に夕陽が差し込む風景もどこかで見たことがあるからだろう。もしくは、前方を歩く後ろ姿に見覚えがあったのも理由のひとつだったのかもしれない。最初に出会った日より近い位置を、ほんの数メートル先を男は歩いていた。すると、あの日と同じくその男は振り返ってこちらを見た。
「痛ッ……………」
おかしいようだが、再び同じ鈍痛が走った。ただ、こんどは視線をそらさなかった。向こうも初めてのときのようにどこかへ行ったりしなかった。それどころか近寄って来て声をかけて来た。
「…………大丈夫か」
見れば、歳はさほど離れているようには見えない男だった。暑い盛りなのに黒い服を来て、髪は少し伸ばしていた。
「あ、大丈夫。もう治った」
「そうか、今年の暑さは厳しいらしいからな」
ほらこれ、と言って青年は親切にもペットボトルのお茶を差し出してくれたが丁重に断って
「ひとつ、聞いてもいいかな」
「なんだい」
「栴檀って家を探してるんだけど、知ってるかな」
「……知り合いか何か?」
「そんなところ、と言うか本人に招かれたんだけど、住所を聞いてなくて……」
「ああ、そんなことか。俺の家の近くだ。俺の家に寄ってからでいいなら送ってやれるけど」
「うん、それでも構わないよ」
 歩きながら聞いた自己紹介によると、青年は樒と同級生で、この先のマンションに住んでいるらしい。苗字は黒鷂。



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