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2011年12月07日
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カテゴリ:實戦刀譚

  鉄の神秘

  現代の剣聖中山博道先生の試し銘の入った、源良近という刀を戦線で見た。
 将士はいずれも切れ味がよく強靭だといっていた。
  この刀は無垢鍛(むくぎたえ)、即ち一枚鍛えが多くて、
 例の昭和刀と同列に論じられているらしいが、
 昭和刀のように偽銘を切ってあったり、
 古刀新刀に偽装したりしたものではなくて、
 ちゃんと作者銘の入ったものだけに、
 殊に中山先生の試し銘も入っている事であるから、
 自分等は相当慎重にこれを研究した。
 陣中では数振りに接したが、切っ先も元も折れたものはなく、
 刃こぼれしたものはあったが、それとても小さかった。
 どうした造り方か、地鉄は非常にねちっこい。
  この刀に首をひねっている頃、それは昨年(十三年)の三月の事で、
 ?州の兵器修理班の鍛工場で、工員(制規上軍刀の吊れない人達)が、
 日に日に危険にさらされてくるので、必要に迫って、
 廃物の古自動車のスプリングを利用して刀を打った。
 もちろん鍛えもせず、焼いて延ばした上一様に焼きを入れ、
 それを適度に戻したもので、
 自分の助手をしてくれていた加古という鍛工軍曹(その当時伍長)が指導した。
 加古軍曹は、愛知県小牧に住む刀匠で、造刀については深い研究を積んでいた。
  そうした焼きの刀であるから、もちろん刃紋もなく、
 若い人達の手に合うようにというので、ある刀のごときは元身巾が一寸二分、
 重ねが二分二、三厘もある大切っ先の浅反り二尺三寸、
 虎徹の大業物そっくりなものができ、それに木工場で楊柳材の鞘を作り、
 軍刀修理場で外装を引き受けて、とにかく吊れるようにし、
 いつ敵襲があっても心配ないという事になったが、
 その刀が不思議に粘硬で何を切ってもよく切れる。
 ある兵隊が戦場で試したが、骨までズンと斬れたというので、
 にわかに“?州虎徹”の名が高くなって、
 あちこちから希望者が殺到するという有様であった。
  この刀の粘硬さと、前記の良近とはよく似ていた。異なっているのは、
 前者には刃紋があり、後者にはそれがないという点だけであった。
  斯様(かよう)な事については、すでに水心子正秀が書き残している。
 実用日本刀の大量生産を必要とする今日、良近刀と?州刀の事実と、
 しかして水心子の書き残した事とは、
 一脈の連関でもありはしないかと思われるほどである。
 水心子曰く、
  大工のてうな、斧、鉈などの刃味は鎌、庖丁の刃味よりは格段に甘く
  火を戻し候物にて大業にかけて能く切れ候ものに御座候
  依て刀の刃味も斧鉈の位にて可然候へども、
  當今は眞剣の勝負も稀なる故にや鎌、庖丁の如き刃味を宜しと致し候
  それ故ためし物にも頭或は脛などの堅き所を切ては刀の刃損じ易く候。

 とあるのは、玩味すべき記述である。
  自分は、十数年来根岸流の手裏剣術もやっている。
 この手裏剣は通常四、五間の距離から、
 厚板の標的に向かって強く打つのであるが、十本が十本いずれも
 切っ先三分から五分ほど恐ろしい勢いで板に打ち込まれるので、
 焼きの加減では折れてしまう。
 そうかといって、焼き刃がなくてはうまく打ち込めぬので、随分と苦心をした。
 一時は川口市在の青木村まで行って、群居する錐鍛冶に焼いてもらったが、
 それでも折れるには閉口して、いよいよ自分で鍛えるようになってから、
 ようやく焼き入れと焼き戻しが完全に出来るようになったので、
 今では一本も折れない。これは甲州の山の中の小泉村で、
 鋸(のこぎり)鍛冶からその秘訣を教えてもらった。
  ある時夜店で古い鋼鉄棒、(昔の鍛錬鉄だというもの)を
 買ってきて作ってみたら、結果ははなはだよく、先だけが堅く焼きを入れたが、
 戻しが少ないにもかかわらず折れない。
  根岸流手裏剣の老師故利根川先生(上州館林の藩士で永く郡長を勤めた人)は、
 会津戦争にも参加され、昔の実戦の経験をもっておられたが、
 「出陣には刀の吟味が第一だ。手に合った刀、
 破損しない拵えだけで一半の勝ちだ。
 手裏剣に至っては秘伝の大半はその製作にある。」
 と常々語ったのは味のある言葉だった。
  この流儀の別派で、水戸に伝わったものの名手に、故徳川慶喜将軍がある。
 公は一時非常に凝られて、この手裏剣を各方面の鍛冶に打たせてみたが
 一本も満足なものが得られなかった。
  公が静岡に隠退せられた時分に、試みに國友という土地の鉄砲鍛冶に打たせた。
 國友は古鉄砲の地鉄をよく鍛錬して数本つくって持参したところが、
 その中から三本取り上げただけであったが、
 まことに具合がよいと公のお褒めにあずかったそうである。
 残りのうちから宮内省の役人が所望して行ったとは、
 静岡精華高等女学校の某教諭の話である。
 その手裏剣は、今でも小石川の公爵家に保存されていて、
 筆者も拝見した事がある。
 この女学校では手裏剣術を学校武道の随意科目として採用している。
  こうした自分自身の苦心があったから、
 例の自動車の古スプリングで造った刀の強靭なのも自然と頷かれた。
  ドイツの碩学ヘッケルがその著「万有生論」の中で、
 物質には、たとえそれが無機物であっても、生き物と等しく永い存在の間には、
 外界の影響を受けて、自然に一つの慣熟性を帯びるものなる事を、
 実験によって実証してある事を思い出して、ポンと膝を打った。
  自動車の古スプリングは、重量に耐え寒暑に屈伸して幾年、
 その間に自然に粘硬の度を加えたものであろう。
  こう考えてみると、あの稀代の大物斬れ『虎徹』は最初『古鉄』と号した。
 それから、彼の用鉄は、古鉄をおろしたものであるから、
 地鉄が非常に強い事は、名工月山貞一が看破してそういっている。
 虎徹一派が、非常に苦しんで作刀し、各一代の作品が非常に少ないのも、
 地鉄を古物に求めて、それを再製したからだろうと思われる。
 こうした事はここでは省略する事として、支那の古詩にも、
 日本刀の鋭利なるは、作刀後十年寒冽の井底にこれを置いて
 然る後使用するからだとあるを見て、
 無論想像の上の事であっても、何らかの示唆とみるに充分であろう。
 





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Last updated  2012年04月26日 22時42分50秒



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