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テーマ:ささやかな幸せ(6727)
カテゴリ:心つくり
昨日の親子喧嘩、これまでに落ちた罠の数々、毎日暮らしていると気分が凹んでしまう事が多々あります。 泣きたくなる事も、泣いた事も・・・。 そんな凹んで落ち込んだ状態から、よいしょ!と次の一歩を踏み出せるのは、いつも回りの方々のお力添えがあってこそ。 前から手を引き、背中を押して・・・。 そうやって、座りこんで丸く小さく殻の中で泣く私を、殻の外に出し、立ち上がり、歩き始める事を思い出させて下さる。 直接的な事、間接的な事、様々な方法でお導き頂ける。 この世に使わされた天の方々なのでは?と思えるほどに、今の私に必要な事を用意して・・・。 今までは、「自分でなんとかしなくては!」「大人なんだから、自力で何事も達成しなくては!」と肩肘張って生きてきました。 私だけでなく、おそらくは「自力」は世の中の美徳とされてきたものだと思います。 しかし、「他力」がどれほどまでに大切か? それにようやく気づきました。 『ありのまま』(梶田真章 法然院貫主 著)にも次のようにかかれています。 「他力」の意味 他力と自力は対をなす言葉ではありません。 他力とは、「阿弥陀仏という外なる存在の力によって、この世ではない阿弥陀仏の世界である極楽浄土で悟らせてもらう」という事を意味します。 佛教というのは、「悟り」に如何にしていたるか?という宗教です。その道筋はいろいろあって、この世においてなのかどこか違う世界で探すのか?などあれこれ細かく分かれています。 法然さんと親鸞さんは、自分の意思だけで修行を積んでも悟りを得られるのはお釈迦様位で、普通の人間にはできないと考えました。 私達は業縁(業=行ない、行為。私達の行ないは、自分の意思に拠るようでいて、実は縁により全て縛られている。他者や他の存在により拘束されている。)により縛られている。 自分がしたいと思ってもできない事もあれば、やらないでおこうと決めてもやってしまうこともある。これが私達の当たり前の姿、あり方です。 現実はしんどく、思い通りにはなりません。でもしんどいながらも自分なりに生きたら、どのように生きても、向こうで受け止めて下さる方がいらっしゃるから、安心してこの世で思う通りにやりなさい。これが、「他力本願」です。 この世はそういう場所で、自分なりに生きるしかない。なる事はなるし、ならない事はならない。最後は阿弥陀仏に任せるしかないのです。 そこまで徹底した他力となると、結果として本当に心が自由になって、前向きな気持ちで生きられる。どのように生きても、極楽浄土で阿弥陀様が迎えて下さるのですから。 様々な事で苦しんで七転八倒して、それでも自分一人で何とかしなくてはと悶えていた時には、答えは中々探すことができませんでした。 「私は私なりに生きるしかない。この世はなるようにしかならない。」そう思えた時に、素晴らしい仲間に出会い、その仲間を通して様々な教えを頂けるようになりました。 それから一年余り。 今でも凹んだりすることはしょっちゅうだけど、以前と違うのは救いの光が見える事。 試練も、問題をとくヒントも、解等も、きっと「天」からのプレゼント。 「他力」って、素晴らしい教えです。 まずは「この世で生きる」ことが大事なのですから。
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