カテゴリ:神経症の成り立ち
私は今後強迫行為で悩む人はどんどん増えてくると予想している。
今日はその理由を考えて述べてみたい。 強迫行為は強迫神経症の一種です。ガスの元栓を閉めたかどうかが気になる。 電気のスイッチを切ったか気になる。ドアの鍵をきちんとかけたかどうかが気になる。 そのために確認行為を何度もしないと気がすまなくなる。 そして実生活上の悪循環に陥っていく。 普通の人でも何かほかのことを考えていて、後からどうだったかと気になることはある。 引き返してまた確かめて安心する。そして今度は安心して外出できる。 ところが強迫行為で悩んでいる人は、意識して、閉めたという音を聞く。 ノブを持って確かめて一旦はしまっていると納得する。 でもしばらくすると、あれは錯覚ではないのかという考えが頭の中に広がってくる。 不安でいっぱいになるのである。 そしてその不安がどんどん昂進してパニックになるのである。 その後鍵だけではなく、ガスの元栓、照明や家電のスイッチ、手の汚れなどにも波及してくることが多い。 そういう人は、五感は信用できないと思っている。 見る、音を聞く、触れる、味わう、匂うという感じを端から信用していないのである。 どうして自分の五感が信用できないのだろうか。 もともと五感というのは、人間が生き延びていくためにレーダーの役割を果たしていました。 他の肉食獣に襲われないために、常に五感を研ぎ澄まして警戒を怠らなかったのです。 また自分たちの食料を得るためにも、五感を研ぎ澄まして、十分に活用する必要があったのです。 さらには五感を活用して、鋭い感性を磨きあげながら、豊かな感情を育み、四季折々人生を謳歌していたと思われます。 現代に生きる我々はどうか。 テレビやパソコンの情報を相手にして生活するようになりました。 現地に足を運ばなくても、世界各地を旅行した気分にしてくれます。 三ツ星レストランに行かなくても、そこでどんな料理が出されるかお茶の間で瞬時に分かるようになりました。 そうなると現地に足を運んでいなくても五感で感じ取ったような錯覚に陥るようになっているのです。 でもそれは錯覚であって、五感で感じた生々しい体験とは程遠いいものです。 そこが実感として分からなくなっているのです。 例えば、プロ野球の観戦で実際に球場に足を運んだ場合を想像してみてください。 まずは球場の広さ、熱気、寒さ暑さ、吹きわたる風、緑の芝生、カクテル光線、選手達の動き、テレビで映し出されない試合前の練習、観客席の具合、大音量で流れる球団の応援歌、さまざまな観客の応援風景、ジェット風船、いつともなく飛んで来るホーランボールやファールボール、ビールや飲物、食べ物の味などが五感を通じてピンピンと体感できます。 これは自宅でテレビ観戦しただけではわからないものがたくさんあります。 でも今の子供たちは、そうした生の体験をしないでテレビやパソコンの画像と音声だけで分かったつもりになっているのです。 その見る、聞くというのも現地に行って体感するのとは雲泥の差があるのは明らかです。 こうした状況で、はたして見る、聞く、臭う、味わう、触れるという五感の感覚が研ぎ澄まされて、まともに育っていくでしょうか。 残念ながら五感は十分に活用しないのでどんどん衰退してしまうでしょう。 そして五感の体感の経験を持たない人たちが大量に生み出されてしまいます。 今は五感の感覚がわからない人が増えてきます。 終いには、五感なんて信じられない。 それよりもメディアを通じた情報や流行の方が信頼できるということになってしまいます。 五感よりも知識や情報が大切だと思う人が増えてきます。 でもこれは大変危険なことです。 動物行動学を研究されている青木清先生は次のように言われている。 「本来、人間というものはニオイや音、視覚や触覚など五感によって、情報を収集する存在なのです。 たとえば赤ちゃんは五感の刺激を受け取って初めて、言語中枢を作り上げることができる。 つまり、五感は人間活動の大前提にあり、五感の刺激自体が、生き続けていく上で不可欠な要素である。 けれども今の社会は、言語を中心とした情報ばかりを重視して、身体での経験を軽視する傾向がある」と言われています。 (五感喪失 山下柚実 文藝春秋 46ページ引用) 五感軽視の人間社会がどんな弊害をもたらすのか、真剣に考えてみないといけない時代に入っています。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2016.04.02 06:56:38
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