カテゴリ:生活の発見会・集談会
生活の発見会や集談会で中心的な役割を果たしていた人で、急に森田から離れる人がいる。
あるいは極端に活動をセーブする人もいる。 いろんな事情や理由があるのだとは思うが、とても残念なことである。 活動することがしんどい。重荷になってきたと言う人もいる。 現在は会員が減り、特定の人に役割分担が集中するので無理もないのかもしれない。 経済的な理由や自分の病気、家族の介護などで自由に活動できなくなった人は、残念だが仕方がない面がある。単なる言い訳かもしれないが、仕事が忙しくなって、土曜日、日曜日も仕事という人もいる。 そういう人たちは連絡をとってみると、森田を心のよりどころとしている人も多い。 その半面で、森田の限界を自分なりに見極めて、森田に引導を渡したような人もいる。 連絡をとってみると、もう二度と森田に関わりたくないという人である。 そういう人たちは森田が自分に合わなかったということであろうか。 あるいは会の中での人間関係が悪化してきたのであろうか。 話を聞いてみると、神経症の悩みは継続しており、生きづらさの改善はできていない人も多いように思う。それから次に、森田理論を勉強してきたが、森田理論がいまいち理解できない。 理論学習がマンネリで得ることが少なくなり学習すること、活動すること自体が苦痛になってきたと言う人もいる。そんな学習をいつまでも続けていてどうなるのかという人もいる。 無駄な時間を費やすより、他な治療法を探した方がいいと方向転換をする人もいる。 私は30年以上も生活の発見会と集談会に関わり続けてきた。 途中で役割の負担が増えてしんどくなった。またある程度学習するともうすべてが分かったような気がして、もう得るものがないように感じていた。 それでも世話役をしていたので、集談会を休むわけにいかなくなったのだ。惰性で続けていた。 今となってはその歯止めが効いて、最終的には目指していた鉱脈を探し出すことができたのだ。 生活の発見会にとどまり、集談会に参加することのメリットについてまとめてみた。 まず、 集談会や発見会活動を通じて利害関係のない人間関係を広げることができた。 普段は密接に交流しているわけではないが、強力な心の安全基地としてのバックボーンを得ることができた。普段の生活は、神経症を抱えて、無人島で1人で生活しているようなものである。 そのような環境で背後から援助してくれる人がいなかったらどうなるのか。考えただけでも恐ろしい。 集談会活動をしていて、 1番の心の安らぎを覚えるのはそういう仲間達と触れ合うことができることだ。 発見会活動をやめるということは、そういう温かい人間関係を結果的には拒んでしまうということだ。 孤立した状態で、果たしてこの厳しい環境の中を1人で生き抜いていくことができるであろうか。 私は自信がない。集談会の中だけではそういう人を見つけきらないと言う人もいる。 そういう人はもう少し視点を広げて、集談会以外の森田の活動にも参加してみることである。 テーマ別集談会もある。支部活動、心の健康セミナーもある。全国の総会に出てみるなどだ。 意外とそういうところで、心の安全基地を果たしてくれる貴重な人を見つけることができる。 次に、森田理論学習は、神経症を治すだけではなく、神経質者としての生き方を教えてくれるものだと思っている。 神経質性格を見直し、人生90年とも言われる期間をいかに充実させ、実り豊かなものにさせるかは森田理論を体得できるかどうかにかかっていると考えている。 森田理論は確かにそれに応えるだけのものを持っていると確信している。これは間違いない。 森田理論で言うところの、生の欲望の発揮、不安や恐怖の特徴と対処の仕方、 「かくあるべし」を少なくして、現実や事実にしっかりと根を下ろした生き方などを懇切丁寧に教えてくれるようなところは他にはない。これを自分のものにすることができれば、人間としてこの世に生を受けたことを心の底から喜んで活動できるようになる。 私は今まで森田理論以外にそんなものに会ったことがない。 これは森田先生が全世界の神経質性格の人に与えてくれたプレゼントのようなものである。 無形世界遺産にしてもよいような代物なのである。 その恩恵を受けた私たちは、森田先生が作られた森田理論をもっと平易に理論化して、神経質性格を持った人にあまねく福音が届くように工夫や改善をする必要がある。 そして全世界の神経質性格の人が、森田理論学習の恩恵にあずかることができるように努力する使命を帯びていると思う。その活動は我々自身が輝いて生きていけることを意味している。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2017.11.24 06:30:05
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