カテゴリ:治るとはどうゆうことか
「症状不問」という言葉を聞かれたことがあると思います。
神経症を治すためには、症状を治すという考え方をすっぱりと捨てる。 そして、目の前のなすべき課題に取り組んでいくということです。 薬物療法や他の精神療法では、神経症のもとになっている不安を軽減するか取り除いていくという対症療法が中心となっています。 森田療法とは不安に対する考え方が、根本的に違います。 森田療法では、不安はイヤなものであるが、生きていく上でなくてはならないものである。 だから排除する。逃げまくるという方法は間違いですという立場に立っています。 不安と共存して、不安の役割を正しく認識する。 さらに「不安は安心のための用心」として日常生活に活かしていく。 最終的には、不安を欲望の暴走の抑止力として活用していく。 こういう立場にたっているわけです。 この考え方に目覚めた人は、遠くにかすかな光明を見つけたような気持になります。 問題は、「症状不問」を口にすればするほど、「症状不問」から離れていくということです。 それは、「症状不問」に注意や意識が向いて、物事本位になり切れていないということだと思います。それを判断するには、その人の普段の生活を観察すればすぐに分かります。 でも「症状不問」という森田の基本的な考え方に、心の底から賛同することができたというのは、とても素晴らしいことです。それを否定するものではありません。 真理を発見したのですから、うれしさでむせび泣くような気持になることは素晴らしいことです。あとは、実践や行動の面で活用していくことが大切です。 そのためには、いったん「症状不問」という言葉を封印することが必要になります。 「症状不問」に注意を向けて、意識している状態から離れていくということです。 では何をするか。 規則正しい生活を徹底する。 日常茶飯事を一心不乱になって丁寧に行う。 つまり凡事徹底を実践するということです。 これらを「症状不問」という言葉を忘れるほど徹底する必要があります。 なんだそんな事か。つまらないと思われるかもしれません。 私の見るところ、「症状不問」をことさらに唱える人は、意識してそれなりに努力をされています。行動面で目を見張るほどの実践をされています。素晴らしいことです。 ただ意識して自分を叱咤激励して実践しているということが、後々問題になるのです。 それは、「症状不問」という言葉を頻繁に使うことで、自分の実践の程度を推し量っているところがある。森田先生は、「あるがまま」を学んで、「あるがまま」になろうとしても、決して「あるがまま」にはなれないと言われました。 事実として、「あるがまま」とは正反対になり、葛藤や苦悩が増えていく。 それは、「あるがまま」というキーワードが、「かくあるべし」という観念として固着してしまうからです。 実践や行動の後で振り返ってみると、いつの間にか「症状不問」になっていた。 症状を治すということよりも、目の前の課題に向かって一心不乱に取り組んでいた。 こういうことが日常生活の中で格段に増えてくる。 まわりの人は、そういう人をみて、「症状不問」を身に着けて、森田理論を体得していると判断するのです。「症状不問」という真理を理解しただけでは、人は納得しない。 日常生活に活かされていなければ、自己顕示欲が強く自己満足の人です。 まわりの人は、実践によってオーラを放ち、周りに好影響を与えている人を称賛するのです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2021.04.16 06:20:05
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