カテゴリ:治るとはどうゆうことか
吉田兼好の徒然草の92段に次のようにある。
ある人、弓射ることを習うに、もろ矢(二本の対の矢)たばさみて的に向かう。 師の言はく、「初心の人、ふたつの矢をもつことなかれ。後の矢を頼みて、はじめの矢になおざりの心あり。毎度ただ得失なく、この矢に定むべしと思へ」と言ふ。 わづかに2つの矢、師の前にて一つをおろそかにせんと思わんや。 懈怠(怠ける気持ち)の心、みづから知らずといえども、師これを知る。 このいましめ、万事にわたるべし。 道を学する人、夕べには朝あらんことを思ひ、朝には夕あらんことを思ひて、かさねてねんごろに修せんことを期す。 況(いは)んや一刹那のうちにおいて、懈怠の心あることを知らんや。 なんぞ、ただ今の一念において、ただちにすることの甚だ難き。 弓を射る時に2本の矢を用意していると、仮に1本目を外しても、もう一本の矢が残っている。 そういう逃げ道があると、背水の陣は敷くことができない。真剣さが足りなくなる。 「二兎を追うものは1兎も得ず」ということわざ通りの結果になることが多い。 的を射る矢は、これしかない。これを外せばすべて終わりだ。 そういう覚悟を決めて、真剣に取り組む姿勢が大切だ。 二本の矢のどちらかの矢が当たればよいという考えでは、真剣さが欠けるために、二本とも外してしまう事が多くなる可能性が高くなる。 神経症の克服でいうと、森田療法、薬物療法、いろんな精神療法、カウンセリングに手あたり次第取り組んでみたが症状が治ったとはいいがたい。そういう人はいづれか一つに賭けた方が、良い結果が出てくる可能性が高くなると思います。 ある人は気分本位になり、すっかりあきらめて無為の人生で折り合いをつける。 これではいつまでも神経症の克服はできない。残念な人生で幕引きとなります。 こういう人は、人生90年代を羅針盤を持たずに大海を航行するようなものです。 私は、神経症を治し、神経質者としての生きる指針を見つけるためには、森田理論にすべてをかけてみることをお勧めいたします。 具体的には、症状に対しては背水の陣を引く。俎板の鯉に学ぶことです。 治すことはできないと白旗を上げて降伏することが大切です。 神経症とは休戦状態に入ることです。 そして仲間の援助を受けて森田理論学習に取り組む。 「神経質にありがとう」の著者である玉野井幹雄さんは、治すことに絶望して、地獄に落ちたまま、地獄の住民として生きていくことを選ばれました。玉野井さんは、生きづまったままの人生を受けいれたことが、神経症の克服につながったといわれています。 そういうあきらめの気持ち、戦意喪失の気持ちに入ることができた人は、不思議なことが起きます。特筆すべきことは、精神的な葛藤や苦悩がなくなります。 その日から神経症克服後の逆転人生が幕を上げるのです。 生まれ変わり、再生の人生が始まるのです。これを逃す手はないと思います。 ここから本格的に日常茶飯事や好奇心、興味や関心のあることに手を出していけばよいのです。 神経症の克服に向かって、手を変え品を変えてあらゆる治療法を渡り歩いている人は、なかなか思ったような成果が出ていないようです。特に生きづらさがいつまでも取れないようです。 森田理論学習に絞って愚直に取り組んでいる人は、神経症の克服のみならず、確固たる人生観をものにしている。人生観を獲得しないと人生は味気ないものになります。 私は森田に絞っている努力している人を見ると、つい応援したくなります。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2021.05.30 06:24:57
コメント(0) | コメントを書く
[治るとはどうゆうことか] カテゴリの最新記事
|
|