カテゴリ:治るとはどうゆうことか
「そのままのあなたですべてよし」(生活の発見会 山中和己)という本に次のように書いてある。
「実践はしているが、いつまで経っても治らない」 相談中にそう発言されるかたが、あとを絶たない。 そこでわたしは、こんなふうにいってみる。 「実践」と「なおる」ということとはべつもの・・・。 そう、とらえたほうが妥当ではないでしょうか。 ただし、これからも、毎日の「仕方なしの生活」は続けてくださいね。 (同書 218ページ) まったく同感です。 神経症を治すために、ハツカネズミが一晩中糸車を回し続けているような行動は、神経症を治す方向には向かない。 むしろ意識や注意を神経症に引き付けてしまう。 これは実践するとよく分かります。神経症の苦しみが増えてくる。 治すための必死な行動がバカらしくなってきます。 最初はイヤイヤ、仕方なしの行動・実践で構いません。 むしろ行動に弾みがつくまでは、そうすることが大事です。 気分本位になって、しんどい、つらい、おっくう、めんどう、できない、動きたくないといって行動や実践を回避してしまうというのは駄々っ子のすることです。 その道を選ぶと、暇を持て余し、考えることが内向きになり、ネガティブで悲観的なことばかり考えるようになります。 この段階では、行動する習慣をつけることに専念した方がよいのです。 つまり神経症を治すための行動であっても何ら構わないということです。 しかし、曲りなりに規則正しい生活になった時、その意識を持ち続けると、神経症は以前よりも悪化するということになります。 症状を治すという目的を持った行動は、そこに注意や意識を強力に引き付けます。そして以前持っていた症状よりもさらに悪化するということになります。 ここでは発想の転換が必要になります。 行動は神経症を治すという目的のために行っているのではない。 行動や実践は、自分の生活を維持して生きていくために、必要な時に、必要に応じて、必要なだけを心掛けるようにするとよいのです。 そのためには、行動・実践にあたっては、物そのものになりきるという心がけが大切になります。一心不乱になって、目の前のことに集中する。 気が付いたら、症状を治すということをすっかり忘れていた。 つまり一時的には症状がなくなっていたということです。 こういう体験を積み重ねていけばよいのです。 行動の中から、興味や関心、気づきや発見が見つかったら、しめたものです。 ここでは感情が谷あいを流れる小川のように動き出したということが肝心です。 問題点、改善点、アイデア、工夫が泉のごとく湧き出てくるようになれば、神経症的な悩みは一時的に棚上げ状態になります。 頭の中が神経症の悩みで一杯の状態から、仕事や日常生活、趣味や付き合いなどのことで少しずつ置き換えられるようになります。 この方向に切り替わっていくことが、神経症が治るということになります。 100%症状のことで頭がいっぱいだった状態が、いつの間にかその比重を下げてきたという実績が大事なのです。 不安神経症の人は頓悟で治る人が出てきます。 強迫神経症の場合は、急に神経症が治るということはありません。 徐々に時間をかけて、振り返ってみたら、神経症に振り回されなくなっていた。 そういえば、神経症で振り回されてつらいときがあったと思うようになります。 強迫神経症の人は、普通は漸次という治り方をします。 老婆心ながら、神経症は完全に治るということはありません。 神経症は特定の不安にとりつかれて、深みにはまり観念と生活が悪循環することです。不安にとらわれやすいという性格自体は治すことはできません。 またこの鋭い感受性は無くしてはなりません。 それは自分の個性のようなものです。自分の長所としてとらえるべきです。 大事に育てていく姿勢を持って、頭の中で過度にとらわれなくなって、生活がまがりなみにも前進するようになった時点で、神経症の克服宣言をすることです。 周りの人に「治った、克服した」と言っているうちに本当に治ってしまう。 ですから「ほどほどに治す」のがベターなのです。 森田の理論学習の中で「ほどほど道」を目指そうと聞いたことがありますが同感です。そのエネルギーを、生の欲望の発揮に投入していくようにすれば、神経症に振り回されなくなり、さらに味わい深い人生に転換してくるはずです。 ここに焦点を当てて日々の生活を大切にして気を抜かないで取り組んでいきましょう。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2021.12.05 06:31:21
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