|
カテゴリ:カテゴリ未分類
村に夕暮れが訪れる。
夕闇がせまるにつれ、外で遊んでいる子供たちに、次々と家から「呼び子」の声がかかる。 しかし夕暮れになってそれぞれの家に帰ってからも、すぐにご飯が待っているわけではない。その前に子守や家畜洗い、膨大な量の野良着の洗濯などのてご(手伝い)を、一家の要としてこなさなければならないのだ。 だが、核家族で暮らす小夜には、自宅においてはそこまで重要な仕事は任されなかった。 皆が家人に呼ばれていなくなってしまわぬうちに、小夜も遊びを切り上げて帰ってきてはいたが、家の中でもまだまだ遊んでいられた。 そして家にあっては、いつも小夜は内気で病弱な妹の古都子(ことこ)と遊んでいた。 古都子は本来は幼稚園生のはずだったが、生来の病気がちの性質ゆえに家にこもって暮らしていた。 だが体質はどうあれ、最近は小夜の遊び相手になるくらいの知恵をつけてきていたので、小夜は自分の考え得るかぎりの二人遊びをあみだしては、姉妹で仲良く遊んでいた。 よくする遊びとしては、小夜の自作の脚本の劇や、歯科医である父方の祖父からもらった口腔鏡やカルテなどを使った本格的な歯医者さんごっこなどがあった。 脚本で快心の作などができあげると、父の日や母の日などに姉妹ふたりだけで上演した。 また、病気がちでふせっている妹のために、小夜はクロスワードパズルを作ったり、国語の教科書に載っている「てぶくろをかいに」などの物語の続きの話を自分で創作したりと、小夜はそういった家遊びも得意だった。 さて、それがこうじて、小夜はある日とんでもないアイディアを思いついた。 小夜は相生の言葉である御詞(みことば)を苦心のすえ聞きこなせるようになると、今度は心から気に入るようになった。 古語というべき言葉の響きは、小夜を魅了した。また話し方といい言い回しといい、相生の人々は本当にゆっくりと語るのであった。 語尾も、高低に三音階ほど変えて、少なくとも二秒は伸ばすこともある。 「してくれ」というのにも、「してやってくれ」というように、必ずクッションのある表現が用いられた。 相生の人々のお呪(まじな)いである御詞に近い方言──そんな不思議な言葉を、小夜は文字にして書き残したいものだと考えるようになった。 小夜は家にこもりがちの妹に、自分が家の外でどんな暮らしをしているのかを話し聞かせるために、相生を題材にした物語もよく創作した。 だが、横浜育ちの妹は、小夜の文章を見て必ずこう尋ねるのだ。 ──これはこう読むの? ──少し語尾が違う。 相生の会話文をそのままに読ませるために、小夜は方言をできるだけ忠実に聞き取っては、作文上に書き写していた。しかし、それだけに、妹とはこんな質疑応答が繰り返された。 そうした末に思いついたのが、相生の言葉をまだよく知らない妹に、発音記号のようなかたちで文字を考案してやったら、いちいち小夜に語音を尋ねなくとも、その雰囲気で相生の物語を読むことができる、ということだった。 だが発音記号を作ることは、至難の技のように思われた。訴(うたい)方にしろ呪(まじない)方にしろ、その文言は口頭でのみ継承されていく。すなわち、御詞(みことば)は文字を持たないのだ。 ゆえに小夜はまず、自分で発音記号を勝手にあみだすことを考えた。 はじめ、発音記号をゼロから作りだすことは至難の技に思われた。 だが、その問題は意外なところで解決を見るに至った。 本日の日記--------------------------------------------------------- 突然ですが、鳥取県外にお住まいの方、とちもちって食べたことありますか? 鳥取では毎年九月にとちの実拾いが解禁になるのですが、何度もアクをぬいて臼でついて作るとちもちは、秋の味覚としてはマツタケなどは足元にも及ばない美味さなのです。 お土産物屋さんなどの、餡をくるんだとちもちではいけません。 それすら予約しないと手に入らない幻の餅だそうですが、とちもちはやはり囲炉裏端で素焼きしたものに砂糖じょうゆをたらしたものを食べなければなりません。 とち餅とは香り高い金茶色をした角のない丸餅なのですが、これが何度おかわりしても食べられる。まさに胃袋に底がなくなったかのように食べられます。 今日の分はもうおわり、と母から宣言されて、幾度落胆したことでしょう。 ともかく飽きるまで食べられるようにと、小動物の冬支度のごとく必死でとちの実を集めたものです。 マツタケなぞは、相生村ではどこの山にも見つけられることができました。まるで今の金木犀の香りのように、この時期には里全体に漂ってくるのです。どびん蒸しなど、毎日のお味噌汁代わりです。マツタケのありがたさを微塵も感じることのできなかったあの頃、私にはとち餅のほうが珠玉の食べ物でした。 さて、食べ物といえば・・・相生村では、食べ物のことを「賜ぶ物(たぶもの)」と言います。食べ物は「賜(たまわ)り物」に他ならないのです。 これは、人々が口に入れて栄養となるものを、神々からの贈り物と実感してきたからなのでしょう。 いうまでもなく、人は毎日、タベモノを頂いています。 そして確かに、とちの実やマツタケなどは、ある時期から突然に山から「賜う物」です。 食べることは食べられることにも通じています。 けれども、食い食われることは罪悪ではなく、自然の基層です。 過酷だけれど、豊饒。 そういう連鎖は、現代にあっても時々刻々と起きています。 裏山で生きものを見つめていたあの日の目をして、今日のさんまを頂いてみませんか。 これぞ豊饒の海。 明日は●森からの言伝●です。小夜が精霊の森で目にしたものとは──。 タイムスリップして、あなたも言伝を受け取りにきなんせ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
|