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テーマ:本のある暮らし(3185)
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文芸書新刊コーナーにて平積みしていただいております。 昨日、上記のような手書きのPOPを初めて自分の目で見たんです。 これは初めて涙腺にキた。 自分で書いた文章を、誰かが手書きして下さったのです。 お近くにお住いの方(笑)、ぜひチェックしてみてください! ようこそいらっしゃいました。 今日はね、私がブログを始めた一周年の記念日なのです! どうか一緒に喜んでください☆ 私がこのブログを友人の手で(ありがとうHさん:笑)開設したのは、一年前の今日火曜日のことでした。鳥取に行ったのも火曜日。火曜日にはご縁があります。 よくね、「小夜子ってなんでそんなこと覚えてるの!」って言われるんです(笑)。 で、国立大の心理学者である私の妹の分析によると、私はいわば“記憶することに嗜好性を持つ”人間なのだそうです。簡単に言うと、“フェチ”なのだそうです。 私は何事かを思い出す時、その場にいた人々の言動はもちろん、その日の服装、声、匂い、瞳の動きまですべてありありと思い浮かべることができます。この現象を例えるならば、“写真の連写”のように彼らの残像を五感で覚えているのです。 でもね、これ、実はオットが最たるものなのです。 私の場合はある限られた一定の人にしか記憶の嗜好性は発揮しませんが、オットは誰であっても、たとえばなにかの定例会などで一年会わない人がいたとしても、そして、それが自分とはあまり関わりのない私の方の友人であっても、その一年前の服装を言い当てることが出来ます。「あの人、去年も同じ服を着てたよね」と。 オットは普段そういう部分を“隠して”生きているので、周囲からはあまりそういった印象を抱かれないと思うのですが、他者に対して鋭いという部分では他の追従を許さない特性があります。 思うに、私たちにとって、“記憶”は自分のアイデンティティなのだと思います。 自分の持つ記憶こそが、自分を唯一確認、確証できるツールなのだと。 私にとって、記憶は文章を引き出すのに欠かせない根源でもあります。だとしたら、やはり記憶は価値観とも言えるわけです。 全員が全員、しっかり覚えてなくてもいいんです。 でも、その中の誰かがはっきりと記憶していて、いつでもどこでもそれをありありと語れることは、メンバーにとってもとても喜ばしいことではないでしょうか。 それって、誰かが自分たちの生きた時代を深く愛していたってことに他ならないのですから。 先日の“マグダレナ女子学院”プチ同窓会にて、そんな話をしていました。 私たちは大人になりずいぶん経った。 あの頃と違ってしまった部分もあるかもしれない。 でも私は、みんなの輝いていた姿をいつでも思いだせるし、それはとりもなおさず、みんな大好き! ってことなんです。 私は近代文学しか読まないので出典が古くて申し訳ないのですが、太宰治の『駆け込み訴え』という作品があります。 キリストと十二弟子の物語で、キリストを売ったユダが裁判官のところに“駆け込んで”“訴えていく”ことから話が進んでいくのですが、そのユダの述懐の中にこのくだりがあります。宿をとるのに奔走していたユダに、キリストが「お前にも苦労をかけるね」と声をかけたのです。後にこの作品の内容を聞いたローマ教皇ヨハネパウロ二世は、キリストがユダにかけた言葉について触れ、「私はこの一言で、我がいやしい人生を生きられる」と言いました。 そう。誰かのたった一言で、人は生きられるものなのです。 ならば、幼い頃の時間は人生の中でたった一瞬でも、人はその記憶をよすがに生きていくものなのかもしれません。 願わくは、すべての人の幼少期が輝かしいものでありますよう── ◆お読みいただけたら人気blogランキングへ 1日1クリック有効となります。ありがとうございます。励みになります! ◆ちょっと宣伝ごめんなして お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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