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親鸞聖人の和讃には花鳥風月が主題になったものがありません。 それは献詩だからです。 詩の本質は、抒情にあることを認めなければなりません。 しかし、抒情だけが詩になるのではありません。 抒情は知性と対置して、抒情であるのです。 和歌と俳句は、共に抒情が表面に出て知性は裏面になります。 抒情と知性を共に詩うには、あまりに短すぎる詩形だからです。 献詩は、詩を献ずる相手を正確に評価し、これにどのような思想で応じ、 作詩するかによって生まれるのですから、ただ感情でもって訴えたのでは献詩になりません。 抒情の作用には、物を考えるという批判する作用とは別の面のほうが表面になっています。 思考と批判を加えた思想抒情詩が、献詩となります。抒情の短歌は、 どうしても弱い心を詩うことになり、雄々しい決断の志を詩うことが容易ではないわけです。 親鸞聖人が短歌を離れて和讃によられた結果が、奉献詩人となり得られた因縁であります。 そのままが、他に類似を見ない[本願念仏の大詩人]と讃えさせていただく由縁であります。 《ご和讃の法話:林水月和上著 西本願寺勧学;故人》のご法話をいただきつつ 、 親鸞聖人の和讃の一面を綴ってみました。 Namo-amidabutsu Guragyu: 愚螺牛 ★★★★★ namo-amidabutsu PhotoCopyright © YURIKO OCHIAI JAPAN 落合 由利子 石原秀樹JAPAN 1981-modern times FukashiHojo+OfficeAmitaHouse
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Last updated
2014/11/09 01:43:49 PM
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