テーマ:政治について(19769)
カテゴリ:政治
何と言っても今年の9月19日、安保法案が国会で「可決」され、今後日本が海外で戦争のできる国となったことが、戦争放棄し平和主義であったはずの「戦後日本」の大転換としてエポックメイキングをなす事件であった。
この「可決」の様子はテレビにも映され「可決」されたとするにはほど遠いデタラメぶりが衆人の環視するところとなったが、安倍政権はそれを全く意に介せず、そればかりかその後も憲法53条にもとずき国会召集せよという野党の要求も無視し続けた。 声のとどかぬ者・力の弱い者を馬鹿にし、そればかりかそういう者たちを餌食にして自分たちの利得を得ようとする。日本のいたるところで梅雨時のカビのように跋扈する詐欺師たちのメンタリティーだ。 9月19日を頂点とする夏から秋にかけての国会をめぐる状況は、安倍政権と自民党のめざすものをはっきり示す場とはなったが、それは今年始まったことではない。政権発足時より秘密保護法制定、武器禁輸取り止め、集団的自衛権閣議決定……と確実に彼らの野望の実現を図ってきていた。 しかし今年その動きに極めて大きな変化が加わった。 それはこの安保法制に反対する大衆運動の爆発的な盛り上がりだ。国会周辺をはじめとして日本国中で連日何万という人々が安保法制に反対する声を上げ続けた。シールズという大量の若者集団も加わってこの運動を盛り上げた。8・30、車道をふくめてはじめて国会周辺のあらゆる場所を埋めつくした時、NHKは小さく野党党首たちが握手したという映像を流しただけだった。実際はテレビに映った場面の周辺には12万人の人間のうずがあったのだが、それを少しも流さない。 日本のマスコミは金と権力を持つものたちの宣伝機関になっている。多くの国民がそれに気づいているかどうかはわからない。しかしあの時、国会周辺にいた者であれば誰もが実感したはずである。日本の民主主義は確実に根付いていたこと。自分たちが民主主義の担い手であり、戦争には絶対に反対し続けるということ。あまりにも当然な国民のこの声が正々堂々、国会議事堂をゆるがす勢いでわき上がっていたこと。 さすがに、どんなに鈍感な政党であろうと国民のこの動きに反応せざるを得なかった。 野党は安保法制に反対する態度をとることにし、共産党は綱領を一時凍結しても安保法廃棄に向けて野党協力するという方針を出した。これは日本共産党の歴史ではじめて行われた思想的大転換である。 それを可能にしたのは国民が自分の頭で考え行動している真剣な大衆運動である。民主党の一部は「国民に共産党アレルギーがあるから」とか言って協力に難色を示しているようだが、せっかく政権を与えた時の民主党の無惨な裏切りから国民がどれほど民主党に絶望したか、その「アレルギー」の深さを自分たちはどれだけ自覚しているのか。 その失敗を回復する千載一遇のチャンスを国民の運動によって与えられた。それを反故にし去った時、日本の将来は既にレールを敷かれつつある暗澹たる行く末を歩くしかなくなるだろう。 2015年を語る時、国民主権と平和主義を叫ぶ大きな勢力が若者を含め確実に存在しているという事実、一人一人の日常となってその闘いが台頭してきたという事実を無視するわけにはいかない。年末にかけてこの年を振り返るマスコミの番組がいくつか組まれるはずだが、この事実を等閑に付するものはすべて疑い無くエセものである。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2015年12月03日 17時50分00秒
コメント(0) | コメントを書く
[政治] カテゴリの最新記事
|
|