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FUNKTOWN  J.T.

FUNKTOWN J.T.

新宿 1980-1982

■新宿 1980年~1983年■

A32

さて、一方六本木にお株を奪われた「新宿」はどうなっていたか?
人によっては、この頃(1980年以降)の新宿を「完全に終わっていた時代」として否定する方も多い。
たしかに、平均年齢が18歳以下になり竹の子族こそ出入り禁止になったものの、相変わらずその名残りで輪になって踊る習慣があり、フリーダンスが隆盛を極めた当時のノリと比べると、ちょっと違和感があった。

しかしながら、楽曲の方は、往年のミュンヘンサウンドを彷彿させる「親しみやすい曲」が連日オンエアされ、六本木のワンパターン踊り&選曲に飽き飽きした時たまーに息抜きに行くと、それなりに新鮮だった。
また竹の子族の影響で振り付けが各曲ごとにあり、ステップらしきものも復活した。(手がメインだが)
また、この頃はミュンヘン系の曲が100%オンエアされていたわけではなく、全体の50%はサーファー系のファンクで残りの40%がミュンヘン系、残りの10%は日本の歌謡曲だった。
そのミュンヘン系の曲のうち70%がキャンディーポップと呼ばれていた竹の子系で、残りの30%が純粋なディスコ系だった。
その残りの30%が、今となってはレアで良い楽曲が多い。

人気のあったディスコは
「カーニバルハウス」
「ニューヨークニューヨーク」
「カンタベリーハウス系」
「ハローホリデイ」

あたり。


1980年に流行した曲の解説はこちら


さらに時代は進み1981年に突入すると、ますます新宿で遊ぶ年齢層が低くなった。
そしてディスコ界にあってはならない、あの有名な事件が勃発した。
そう!ワンプラスワンの「中学生殺人事件」。
これをきっかけに風営法が強化され、ディスコは非常に厳しい取締りを受けることとなった。
まず、オールナイト営業は厳禁になり、週末でもPM11時ぐらいには閉店。
潜って深夜営業していても抜き打ちの手入れがあったし、少年少女達は補導されまくっていた。
すでに客の大半は竹の子系の中学生・高校生もしくは17歳前後のプータローだった新宿のディスコシーンにとっては大打撃だった。

1981年~1982年に流行した曲の解説はこちら

そんな中1982年になると、時代の流れを受け「竹の子仕様」から「サーファ仕様」に改装した店が新宿にも出現し、六本木と遜色のない盛り上がりを見せる箱も出現しはじめた。
1983年になるとロックやニューウェイブ、ミュンヘン系サウンド(ハイエナジー)が復活し、六本木から再び新宿に客が戻ってくることになった。
その頃の代表的な箱が

「B&B(旧インデ)」
「プカプカ(旧ペルシャ)」
「GBラビッツ(旧シンデレラ)」
「ZENON(旧ハロホリ)」


あたり。

特に「B&B」は、客層が多様化してしまったスクエアビル界隈に満足できない、往年のサーファーディスコフリークに絶大な人気があった。
なんといっても、人気の秘訣はその雰囲気で、入口を入るとすぐサーフボードのブランコがあって、ビデオでは「ビッグウエンズデイ」を上映しトロピカルドリンク飲み放題。
店内はムスクとガラムとSEX WAXの入り混じった独特の臭いが充満し、客層もサーファー(陸含む)オンリー。
選曲も往年のファンク系から最新曲までツボを押さえた選曲で、六本木サーファーディスコ全盛期を彷彿させるノリで夜な夜な盛り上がっていた。

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