ディスコ秘宝館■ ディスコ秘宝館 ■ディスコの風物詩のひとつとしてビジュアル的に懐かしいアイテムとして、当時の「メンバーズカード」があった。 これは本当に会費を払うなりボトルを入れるなりしないともらえない「特典付き」のものと、町で夜な夜な配られている割引券の類のものの2種類があった。 いずれも今となっては入手困難なレアアイテムばかりだ。 ここではその区別なしに、1977年から1981年ぐらいのものに絞ってご紹介します。 「カンタベリーギリシャ館」 歌舞伎町の東亜会館にあった大箱で、当時はこの赤いプラスチック製のカードは非常に出回っていたが、今となってはレア。 メンバーズカードを持っていても特別な恩恵を受けられるわけではなく、結局町で配られている割引券と同じ入場料を取られた。 たしか平日で1900円、週末は3000円。 システムはもちろんフリードリンクフリーフードだったが、ウイスキーやビールは別料金。 酔わせてナンボ・口説いてナンボの世界だったので、常連はダルマに代表されるボトルをキープしたものだ。 アルコールといえばコークハイなるまがい物があったが、これは自分が悪酔いしてしまうのでNG。 オンナもボトルのキープ有無でオトコを見分ける習性があったので、高校生ながら見栄でちょい高めのボトルを入れたものだ。 で、激混みのドリンクコーナーには並ばず、スマートにボトルピッチャーで酒を差し出す。 これがナンパの秘訣だったかな・・・ 「カンタベリービバ館」 ファッションディスコという表現が泣かせるなぁ。 これはギリシャ館と一体版のモノですが、青いプラスチックのメンバーズカードもあった気がする。 そのビバ館ですが、ギリシャより客層が良かった。 ギリシャはミーハー・初心者・田舎モノが多かったが、ビバはツウ・中上級者・地元モノが多かった。 79年ごろには新宿にしては早めにサーファー系に変身したし、客層もそれにしたがって大学生が多く、他よりも平均年齢が高かった。 曲も他が竹の子系が多くなった79年後半から80年代にかけても、ビバは六本木っぽい選曲をしており、達郎や竹内マリヤ!あたりがガンガンかかっていた。 「カンタベリーペルシャ館」 あの頃はカンタベリーハウス3号館という名前で、歌舞伎町ではなく三峰のウラにあった。 週末、東亜会館がエレベーター前から列ができていて、入れても芋洗いで踊るどころの騒ぎじゃなかったが、ここは比較的適度な混雑で踊りやすかった。 ペルシャ館と命名されたのは1979年になってから。 ツウ向けのミュンヘンサウンドがガンガンかかっていた。 夏ごろからはどこよりも早く竹の子サウンドがかかりだし、めざせモスクワの振付もここが一番最初。 YMOも1979年秋ぐらいからヘビーローテーションでかかりだし、元祖竹の子族発祥の地とも言われていた。 他の定番はビバカリフォルニアやナイトタイムファンタジーにマンズワールド。 他が輪になって踊るのが禁止になってからも、しばらくは黙認されていた。 個人的には非常に思い入れのあるディスコで、週3回ぐらいは行ってたかな。 「シンデレラ」 このHPの先頭ページの写真でもご紹介したように、サタデーナイトフィーバーの真似をした、下から光るパネル式のダンスフロアが超画期的で、ゴージャスな照明設備とともに当時は最先端だった。 フロアを見下ろすように設けられた客席はガールハント(死語)には最適で、酒をチビチビ飲みながら、品定めをしたものです。 しかーし、シンデレラの場合、テカテカ光る照明効果のおかげで、誰でも可愛く見えてしまう、というか、顔がよくわからなかった。 で、外に連れ出してからガッカリとか、よくあった。 それと、最新式のフロアはプラスチック製で、パネルとパネルの継ぎ目の金具で足が引っかかり、ファンキーとかはターンもしにくいし踊りにくかった。 とは言え、他よりもかなり新しい曲がオンエアされ、客層も東亜の中では他より田舎モノが少なく粒揃いだった。 ちなみに、私の1978年大晦日・1979年へのカウントダウンはシンデレラで、年越しナンバーは「勝手にシンドバッド」だった。 で、肩車!をして踊ったものだ。 「インデペンデントハウス歌舞伎町店」 ここは少しディスコに行き慣れた人にとって人気があった。 というのは、他のディスコが常に最新ナンバーやビルボードのヒットチャートモノを追っかける風習があったのに比べ、インデはけっこう古い曲がかかり、他がステップが一切禁止だった時代において、一昔前から遊んでいてステップが好きな人にとっては「懐かしい感じ」があった。 KCのセイムオールドソングの次にフォートップスのそれをつなげたり、1回だけ石野真子の「日曜日はストレンジャー」をつなげたことがあり、えぇぇぇ!!!!みたいな感じで面白かったな。(たしかにイントロは似ている) またナツメロタイムと称して、遡って1-2年前の曲がかかることもあり、ディスコインフェルノやユーシュッドビーダンシング等でステップがあった。 そういえば新人歌手のプロモーションも盛んに行われ、はらたかしの「ムーチョマッチョマン」と、パッショナータの「卑弥呼」もここで初めて生で見た。 その幅広い選曲で人気のあったDJが、そう!ジョイ吉野さんだった。 ミュージシャン風の甘いマスクに、非常に気さくな性格が良かったな。 今回ご紹介するのは、そのインデの特別割引券で、なんと6:00までの入場で女性500円、男性1000円! しかも5名以上つれてきたら一人は無料!! こういうキャバレー的な割引券が、新宿駅東口から歌舞伎町に至るまでの歩道で、夜な夜な配られていた。 「インデペンデントハウス吉祥寺店」 同じインデペンデントハウスでも、こちらは吉祥寺店のカード。 キャパも非常に大きく、1000人ぐらいは入れたと思う。 これだけ入ればいろいろな子がいるし、しかも場所柄三多摩地区の初心な子が多く、また周辺はレベル高めの高校が多かったので、いわゆる「スティディーなカノジョ」を作るには最適だった。 私もここで、吉祥女子の子と成蹊の子との甘い思い出がある。 しかし、この手のお嬢さんは門限が早く、店内での勝負は遅くても8時まで。 だから、当時は6時には満員になり、10時を過ぎると人が引いた。 中には真昼間の3時とか4時にオープンする店もあり、6時までに入場すると安い(ハッピーアワー)なんて店もたくさんあった。 特に平日はその傾向が顕著で、金のない高校生は5時オープンと同時にディスコに入り、6時30分までにメシを食べ終えて、8時には誰かしらを軟派して連れて次へ行くってパターンだった。 お店の方も心得たもので、11時30分には営業を終了していた。 ティーンエージャーが大半を占めていたので、当然といえば当然だよね。 「ブラックシープ歌舞伎町店」 東亜会館の裏手にあったディスコ。 渋谷と上野にチェーン店があったが、これは歌舞伎町店のカード。 地下にあって暗くて狭くてガラが悪いディスコだった。 入るとサントリーホワイトのボトルが出てきたが、栓がゆるく素人でも新品じゃないのがわかった。 飲むとさらにブレンドされているのがわかり、あれには悪酔いしたもんだ。 ウソか誠か知らないが、バケツに酒の残りを入れ、それをボトルに詰め直したとか・・・ ダンスフロアはソウルトレインのようなパイプの手すりが配置され、2段程度の段差があった。 客席から見上げる感じになっていて、シンデレラのそれと正反対。 DJブースが真ん中にあり、リクエストしやすかった。 選曲もユニークで、アーチストの歴史シリーズはわくわくモノだった。 どこまで時代を遡るかが楽しみで、当然古い曲はステップになった。 音に対するこだわりもけっこうあって、YMCAの12インチを聞いたのはここが初めてだった。 なんせ店内が暗く、奥の方ではディープキスしているカップルもあって、その濃厚な雰囲気は口説くにはもってこいの空間。 暴走族や不良中学生のたまり場でもあったが、個人的にはけっこう好きだった。 「アップルハウス」 ブラックシープの隣りにあった名店。 ここは生バンドが入っていた時期もあり、店内には大きなステージがあった。 名物はなんといっても円盤型のDJブース。 いちおう動く仕組になっていたが、実際に動いたのは見たことがない。 ハコ自体も超大型で、2階建て! ダンスフロアは吹き抜けになっていて、2階から品定めできたが、この2階席は今で言うとVIP席みたいな感じになっていて、オトコはなかなか座れなかった。 選曲はヒット曲オンパレード型で、ここならディスコ初心者でも知ってる曲が多かった。 他が最新曲を追っかける中、ここではすでに日本でも大ヒットして、ラジオでもかかるような曲がメインだった。 つまり、アラベスクやビレッジピープルあたりが超ヘビーローテーションで、当時の新しい曲やマイナーヒットはほとんどかからなかった。 わかりやすい選曲が一般ピープルにも受け、週末などは足の踏み場もないほど大変な賑わいを見せていた。 年齢層は歌舞伎町の中では一番低く、中学生も多かった。 末期は正に中学生だらけとなり、しまいには焼肉食べ放題の店に変わってしまった。 「ゲット」 今回は新宿南口のパチンコ街界隈にあった、名店のステッカーをご紹介。 今でこそ綺麗になった南口だが、70年代は小便の匂いが漂う、非常に猥雑な町並みでガラも悪かった。 そんな界隈の小さな雑居ビルの4階にこの店は、まだ太陽がサンサンと輝いている午後3時からオープン! 5時までに入るとワンドリンク300円(後、500円に値上げ)という喫茶店並みの価格で、ティーンエイジャーにとっては非常に嬉しい存在だった。 今でこそニックさんがいたということで神聖化されているが、私が通った70年代後半はニックさんもすでにおらず、すごくマイナーな箱だった。 しかし、安さが受け入れられ、平日6時ぐらいまでは下校途中の高校生や早番のデパートガールで賑わった。 ユニークだったのは毎週水曜日の「R&B ソウル オールディーズ」 他では絶対かからないようなモータウンやフィリー、70年代中盤のディスコサウンドがかかった。 さすがにこの日はステップ比率は70%以上で、年齢層も他よりも著しく高く10代はほとんどいなかったが、それ以外は普通のディスコで、アラベスクなどのミーハー曲もガンガンかかっていた。 しかし、六本木に客を取られ歌舞伎町が廃れると同時に、この店も1981年をもって閉店してしまった。 「ツバキハウス」 1979年後半から1980年夏にかけて爆発的に流行したテクノディスコ。 Mのポップミュージックあたりからテクノブームが始まり、B52にクラフトワーク、ディーヴォ、ブルースウィリー&カメラクラブなどを、白と黒の市松模様のファッションに身をかためて踊られていた。 その最先端を行ったのが、今回ご紹介するツバキハウス。 ミーハー選曲が売りのカンタベリー系列の中で、この店だけは非常に異端でかっ飛んでおり、客層も曲もビバやギリシャに比べて明らかに違った。 私自身、この店は1-2回しか行ったことがないのであまり記憶にないが、ミュンヘンの頃はオカマが多く、テクノブームの頃はロックやパンクもかかっていた。 後六本木のスクエアビルにオープンする「玉椿」も同系列だった。 「サーカスサーカス」 テクノディスコといえばこの店もそのひとつで、1980年にオープン。 東亜会館7階にあった。 ダンスフロアが黒と白の市松模様で、かかってた曲は洋楽テクノに加え、邦楽テクノ! そう、一世を風靡したYMOを筆頭に、シーナ&ザロケット、プラスチックス、ジューシーフルーツ等のヒット曲はここから生まれた。 そのわりにツバキハウスほど客層が飛んでおらず、普通の子が多かった。 というのも、テクノ以外のディスコ曲も竹の子系を中心にオンエアされ、高校生や中学生がメインだったから。 まぁーこの店に限らず、80年代に入ってからの新宿のディスコは、ビバ館など一部を除いて20歳以上の大人はほとんどいなかった。 店側も心得たもので、六本木風の気取った雰囲気で高級感を出すのをやめ、「輪っか踊り」を容認し、竹の子スタイルの選曲をしていた。(さすがに竹の子衣装はNGだった) しかし、この1980年頃前後に閉店してしまった店も多く、このサーカスサーカスも非常に短命で、1~2年後にはGBラビッツに変わった。 「ミルキーウェイ」 歌舞伎町のディスコといえばコマ劇場周辺が有名だが、その裏の方にもいくつか名店があった。 特にこのミルキーウェイは穴場! あのチェスターバリー系列の店で場所も新宿より新大久保に近く、まさにツウしか知らないような店だった。 ここは非バイキングで、ボトルを入れつまみをオーダーするパブスタイルだった。 客層は場所柄かなりグレードが高く、デパガやジモティーが多め。 東亜にいるような上京組はほとんどいなかった。 ちなみにこの界隈には本家本元チェスターバリーの他に、スキャット・クレイジーホース・ポップコーン・ムゲン等のツウ向けの店が連ねていた。 東亜よりモナミビル!とのたまう人は、相当遊び人だろう。 「ビッグトゥゲザー」 70年代の大箱の宝庫、コマ劇場の隣にあった東宝会館5階にあった。 このメンバーズカードは街頭でもよく配られていたので、目にした人も多いはず。 「踊るパブシアター」というキャッチーなコピーが泣かせる。 箱自体は1000人前後のキャパがあり、曲も一般的で可もなく不可もなくといった印象のディスコだった。 とにかくキャパが大きく、平日はさすがに広―いダンスフロアが埋まりきらずにちょっと寒かった。 なにしろこの東宝会館は70年代における激戦区で、7階には超人気ディスコ「tomorrowUSA」があったため、どうしてもそっちに客を取られたていた感がある。 私などは、週末USAをはじめ、どこも芋洗いでエレベーター前から長蛇の列ができていた時に限り、ビッグトゥゲザーのような箱に行った。 いわば週末専門。 適度にフロアが空いていて、他よりは踊りやすかった。(といっても満員だったが) 記憶が定かでないが、このディスコは80年代に「ZENON」に変わった。 「トゥモローUSA」 これはビッグトゥゲザーと同じく東宝会館の7回にあった「tomorrowUSA」のアドレス帳! 見開きはこんな具合の店内の写真になっており、今となっては超プレミアムもの。 星型の天井・カーテンが降りてくるチークタイム・最新の音響システムに最新のサウンド・流暢なDJ・・・ どれを取っても超メジャーな人気ディスコだった。 後にディスコの常識にもなる「フリードリンク・フリーフードシステム」も、この店がハシリだった。 ダンスフロアは大変広々として踊りやすく、中央の方はシンデレラ同様の下から照明が光る仕様になっていた。 東亜会館が盛り上がってくるのは1978年なので、1977年まではなんといってもUSAが入門ディスコでもあり、店内はアフロの常連から普通の女の子まで、1000人は軽く入れる店内が連日芋洗い! ところでUSAには二人DJがいて、一人がレコードのライナーノートでもおなじみのジュリー鈴木さんで、もう一人がDJ軍団「エスメラルダ」の創始者・RONNYさんだった。 「カーニバルハウス」 これはtomorrowUSAの閉店後にオープンしたカーニバルハウスのメンバーズカード。 この頃のディスコシーンは六本木に移行し、新宿は子供の遊び場と化していた。 平均年齢は15~16才。 そこに目を付けて、この頃の新宿は竹の子族・竹の子予備軍をターゲットにしたディスコが続々オープンしたが、この店もそのひとつ。 同じビルで、元祖竹の子ディスコ「ハローホリデイ」や、中学生殺人事件で有名な「ワンプラスワン」等があった。 選曲は六本木では決してオンエアされないキャンディーポップを中心とした竹の子サウンドがメインでかかり、輪になって踊っても文句は言われず、店独自の振付やステップがあった。 フロアはUSAの面影を残す特大版だったが、この頃は風営法が厳しくなり、子供の多いこのビルは特に手入れが厳しく、23時30分を待たず閉店してしまうこともしばしばあった。 「ハローホリデイ」 このカードは東宝会館4階・泣く子も黙る「ハローホリデイ」のオープン当初のものである。 80年にオープンした元祖竹の子ディスコで、多くの竹の子族の振付はこの箱から広がったものが多い。 選曲は他では逆立ちしてもかからないようなキャンディーポップのオンパレードで、中高校生を中心に非常に人気が高かった。 同じビルのワンプラも同じようなカラーのディスコだったが、こちらは二番煎じ的な感があったので、今でも伝説化されているのは、この「ハロホリ」である。 恋のペントハウス、ジングルジャングルジョー、夢のシンガポール、レイオールユアラブオンミー等、数多くの竹の子全盛期~末期の名曲がここから流行したものだ。 傍かた見たら全部同じように見える竹の子踊りも、実際に踊ってみると曲ごとにけっこうバリエーションがあり、サーファー踊り一辺倒だったこの頃の「気分転換」にはちょうどよかった。 「B&B」 ハロホリが竹の子ディスコなら、こちらはその対極にあったサーファーディスコの代表格。 メインストリームは六本木に奪われた感のあった80年代において、新宿で唯一メジャーなディスコであった。 そんなB&Bのカードだが、これはオープン当初のものでサーカスサーカスとカップリングになったレアモノ。 82年頃からは田舎モノが多くなってマンネリ化した六本木よりも、むしろこのB&Bの方が人気が高かった。 エントランスを抜けるとすぐ右側にサーフボードのブランコがあり、当時はまだ珍しかったマルチ画面には、連日ビッグウェンズデイが上映されていた。 店内ではガラムやベントール等のインドネシアのタバコの臭い+ムスクの臭いが充満し、「南国」の雰囲気がたっぷりだった。 裏の方ではハッシッシやコカイン、L等も取引され、目が明後日の方を向いた連中もたまにいた。 客層もこの時期の新宿にしては洗練されていて、当時大流行したペインターパンツやECルック・クローズドのペダルプッシャーなどに実を固めた20才前後のサーファーで賑わい、「め組の人」「ミスターロボット」など、この店独自のヒットや振付も多かった。 「シャンバラ」 このディスコのカードは「全く記憶にございません」箱です。 マイナーディスコの代名詞、シャンバラ。 同時期にシャンゼリゼというディスコもあって、よく混同した。 1回ぐらいは足を運んだかもしれないが、2件とも印象に残ってないディスコだ。 どこにあったかも全く覚えてません。 「スタジオワン」 新宿のディスコの紹介が続きましたが、このカードは六本木のディスコビル「スクエアビル」の代表的な箱であった「スタジオワン」 プール・もしくはスケートリンクのような、テーブル席から1-2段下がったダンスフロアが印象的。 このカードの頃(1979年)のスクエアビルの他の人気ディスコは、「fou fou」「ネペンタ」「サハラ」といったところ。 80年代になると「ファーマーズマーケット」や「トプカピ」がオープンし、一躍人気ディスコになった。 81年はなんといっても「キスレイディオ」だったかな。 そんな感じで79年から82年ぐらいまでは六本木がディスコのメインストリームとして、多いに盛り上がった。 「ボビーマギー」 これは六本木ロアビル?にあった「マギー」こと「ボビーマギー」 この箱もほとんど記憶がありません。 80年代の六本木のディスコで本当にどこに行っても同じような曲がかかり、店内も同じような雰囲気で、客層もサーファー一律だったので没個性。 スクエアにあったディスコはみんな同じような雰囲気だったと思うし、スクエア以外もこれといった個性的なディスコはなかった。 新宿の大箱に比べて狭かったしね。 個人的にもディスコに関する思い入れが薄くなってきた時期でもあったし。 そんなわけで、六本木に関しては曖昧なコメントしかできません。 「トプカピ」 知る人ぞ知るスクエアの地下にあったディスコ、トプカピ(キャステル)のオープン記念カード。 1979年オープンのこの店は80年代のマハラジャを思わせるようなゴージャスな店内。 オールVIPルームといった感じのクッションのきいたソファーが並べられ、大人の落ち着いたムードたっぷり。 スクエアビルの他の店に比べると幾分年齢層が高かったが、ディスコ自体は非常に短命で、1年半後には「玉椿」に変わった。 そういえば、この頃はトロピカルドリンクもメチャ流行しましたね。 定番ブルーハワイにソルティードッグ。 他にもマイタイ、マルガリータ、、チチ、ブラディーマリーにピニャコラーダ。 気をつけよう!テキーラサンライズ。 サントリーからボトルも発売されていたぐらいの大ブレークだった。 今はこの手のドリンクを好んで飲む人は、ほとんどいないかもなぁ。 このあたりの曲でパーティー・出張DJをご希望の方は、こちら
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