耕す生活

     

《耕す生活-農的生活を求めて》

農業を始めて、まる十年たった。
月並みな言葉だけれど、はじめたときは「十年たったら...」と心に期するものがあった。
しかし、いざ十年という年月が経ってみると、実に早いもんだ。
48歳のときに、第二の人生というか、人生を二度生きるつもりで農業を始めた。それまでは
政治学や政治思想史を専門にしていた。実家が農家というわけでもないし、出身が東北という
わけでもない。農業とも田舎暮らしとも、まったく何の縁もゆかりもない処から第二の人生を
はじめたわけだ。
昔は、「不安はなかったですか」とよく聞かれたもんだ。田舎暮らしや脱サラ百姓なんかが
流行った頃、雑誌記者やテレビ記者が来ては、そんな詰まらんことを質問をしていった。
「生まれてくる赤ん坊に、そんなこと聞くかい」と、よく反問したもんだった。ただ百姓として
生まれ変わる、他にはやりたいことはない、と単純にそう考えた。 無心とは、そういうことかも知れない。解りもしないことをあれこれ妄想するから「不安」が
先にたつ。解らないことは考えない、ただ行動するのみ。しかし行動するには、闇雲に動き回る
のではなく、考えられる限りのあらゆる具体的な条件を列挙して調べ尽くす必要がある。 「不安」をあれこれいう人は、普通は、この逆をやる。具体的な条件を列挙して調べ尽くす、
ということを何もやらないで、ただ漠然と、解りもしないことをあれこれ妄想しては「不安」に
駆られる。 *とりあえずは、こう書いたけれど、これはまだ「無心」の一歩手前なのかもしれないとは思う。
「諸条件を列挙して調べ尽くす」なんて生臭い行為は、無心とは対極にあるかも知れない。ただ
「解らないことは考えない」、その一点でのみ無心に近いかもしれない、というのが正しい。
しかし、こういうことは確実にいえると思う。「諸条件を列挙して調べ尽くす」という行為を繰り
返せば、その先に「無心」という境地は開かれるかもしれないが、「ただ漠然と、解りもしないこと
をあれこれ妄想」する行為の繰り返しからは何も生まれない。(04/03/23)

山登りの唄に、「街には住めないからに...」というのがあった。そういう意味でいえば、
当時、僕は都会生活につくづく嫌気が差していたし、経済大国という空疎な奢りに自足しきって
いるかの社会にも絶望しきっていた。その反動で、百姓という生き方を選んだわけではないけれ
ど、ともかく自然の中で暮らしていきたい、その一心で百姓になった。

いま、この十年間を振り返って、「もう一度脱皮したい」そんな気持ちがどこかで働きだした
のではないかと思う。

去年の暮れに新しくWEBサイトを立ち上げた。今年の1月末になってこの「楽天広場」の
ホームページも開設した。結局、その動機はこの十年間を総括して、「もう一皮むけた状態で、
次の十年を乗り切りたい」と、そんな気持ちが強く働いているのではないか。
僕は、過去を振り返ることには、それ自体としては興味がない。 三島由紀夫の「宴のあと」の野口老人の言い草じゃないけれど、 「もう過去の話はよしにしようよ。われわれはまだ若いんだから」

しかし、この十年間、必死になってやったきたことを、ある意味で他人の所業を見るように
振り返って、原点に立ち返って考え直してみる、点検しなおしてみる、勉強しなおしてみる、
ということは無意味ではないのではないか。
そんな作業の役に立てば、と考えて「百姓の知恵袋」とか「講読の部屋」を作ってみた。
こういうものはみんな、自分が一から勉強しなおすつもりで始めたものだ。
自分に役立たないものは他人には役立たないし、他人に役立つものこそ自分にも役立つ。
とは一概には云えないけれど、全体としての百姓文化を高めなければ、自分ひとり高みに
たとうと虫の良いことを考えても、それでは高が知れている。 例えば、わざわざ自分から選んで百姓になったというと、無農薬・有機栽培かと聞かれる。
現在の化成肥料と農薬に依存した農業には危険がいっぱいだから、安全な野菜や食糧を自給
するため、あるいは供給するために、自ら農業の道を選んだのか、よく聞かれる。 そうではない。単純に、自然の中で暮らしたい、それには百姓になるが良い、と考えたに
過ぎない。ジャガイモ、麦、大豆を作っているという僕の話を取材して、「日本の食糧の
自給率を高めるため、誇りを持って農業に取り組んでいる」などと勝手な記事をこねあげ、
ひとり悦に入っているバカな記者がいた。適地適作で畑作の基本作物を作っているだけで、
「自給率」のことなんか考えて作目を選ぶバカが、どこの世界にいるか。 この手の決まり文句や型にはまった考え方なんか、もううんざりだ。 率直に言えば、仮に現在の農業に危険がいっぱいなら、もう日本の行く末は決まったような
もんで、たとえ自分が無農薬・有機栽培に取り組んだところで何になる。せめて自分の食糧は
自給して、それで健康に生き延びようなんて考えは、僕には全然ない。 労働人口の中で、百姓はわずか数%しかいない。そのわずか数%の百姓の中で、無農薬・有機
栽培をやっている百姓は、さらにそのうち何%いるのか。その百姓が供給する食糧は、日本の
人口のいったい何%を養っているというのか。そういう意味では、現在の無農薬・有機栽培の
野菜・食糧は、徹底して贅沢品だ。誤解のないように云っておくが、これは日本の農業の中での
無農薬・有機栽培の位置づけを云ってるだけで、それを批判しているのでない。むしろ、先駆的
な役割を果たしている貴重な存在と考えている。
一方、現在の日本と世界の農業生産物が化学肥料漬け・農薬漬けで危険がいっぱいなら、もう
日本の将来は決まったようなもんで、今更ジタバタしたところで始まらない。今後、何十年と
世界からの食糧輸入に依存しなければ食っていけない経済・社会体制と生活様式を作り上げて
しまい、そのおかげでというか、その反面として「経済大国」になりあがり、「豊かな生活」を
享受してきたのだ。
要するに、農業のような「非能率的・非効率的」な産業なんかは潰してしまって、自動車、
カメラ、時計、精密機器、半導体などの得意分野をどんどん伸ばし輸出して、その稼いだお金で
外国から安い食糧を輸入してきたほうが、なんぼか能率的・効率的・合理的かと、そんな考え方
で、戦後何十年となくやってきたし、国民の多くはそれを支持してきた。わずか一世代前には、
こんな議論が大手を振って罷り通っていたし、公然とは口にしなくとも、現在でも心の底では
そんな風に考えている人間はなんぼでもいる。 人生の後半生に入って、あえて百姓という生き方を選んだのは、戦後社会を支えてきた、こう
いう考え方に対するアンチテーゼだ。もう、そんな生き方は行き詰ったという、僕自身の生き方
を賭けたささやかな狼煙だ。 世界の製造工場に特化することで作り上げてきた「経済大国」という偏頗な夢は、都市にも
農村にも索漠たる光景を広げ、青年からは夢を奪い、家庭からは潤いと憩いを喪失させ、社会
的崩壊現象をうかがわせる事件を頻出させている。破壊され、危険な状態に陥っているのは自然
環境や地球環境だけではない。われわれの生活そのものを支えてきた戦後社会の生き方、あるいは
社会環境そのものが危険な状態に陥っているのではないか。僕は、それを「社会的糖尿病」だと
云ってる。もっとスリムで、自然と共存できる、日本の資源と労働力を活性化できる生き方を
選ばなければ駄目だ。 人は、農業はもう過去の産業だ、と思っているかもしれない。僕は、農業はこれからの産業だ
と考えている。産業革命以来、農業は工業への労働供給の貯水池になり下がり、農業そのものが
工業化することで工業の付属物に成り下がってしまった。しかしその工業活動は、過去の太陽エネ
ルギーの蓄積に依存し、いまやその蓄積を使い尽くし、かつその蕩尽の結果としての排出物の前に
地球そのものが窒息しかねない事態に陥れてしまった。 他方、農業そのものは、本来、土と水との協働作業で、現在及び将来の太陽エネルギーを蓄積
していくクリーンな営みではなかったのか。工業化され、工業の付属物に成り下がってしまった
農業が、大量のガソリンを消費し、化成肥料や農薬を大量消費する「工業的」浪費に倣わざるを
得なかったのではないか。農業は、工業から独立して自分の足で立てばよい。そうすれば必ず新しい
視界が開かれる、と考えている。 もう一つの僕のサイトは「農のある風景」と題してある。これは自然環境とか地球環境とか、
いま姦しく流行している標語も、「農のある」原風景を大切にしようという意識・思想にまで
昇華しなければ空疎なお喋りに堕してしまうと考えるからだ。 *「環境」というと、普通、われわれを取り巻く「外部」の世界と考えがちだ。言い換えれば
与えられたもの、「与件」としての環境と考えがちだが、これに対して「内部としての環境」
という考え方がある。すなわち、われわれの生存との交互作用(例えば呼吸や食物摂取と排出
など)を通して、われわれと一体としてある環境という考え方だ。詳しくは「講読の部屋」の
ここを参照せよ。

それに対して「楽天広場」のここは「耕す生活-農的生活を求めて」と題した。 「耕す」という言葉を、
いろいろな意味をこめて使ってみた。昔、まだ僕が「新規就農者」とよばれていた頃、畑に
行かずに、役場の農林商工課や普及所に時々顔をだしていたが、そんな時「今日はちょっと
役場を耕しに...」とか「普及所を耕しに...」なんて云っていた。
僕は、ある意味では都会生活を捨てて百姓になった。しかし都会がなければ現代の百姓は
成り立たないし、農のある自然との有機的な連携を失った都会はそれこそ砂漠だ。そういう
意味で都市と農村のつながりは不可欠だと考えているし、そのためにはお互いに交流して、
お互いの実際の姿を見る、知る、経験するということは不可欠だと考えている。 しかし「耕す」という行為を抜きにして、共感は育たない。共感がなければ、「耕す」行為
は、単なる独りよがりに過ぎない。「農」は、耕す行為だが、自然との協働作業という本質的
な側面を忘れれば、単なる独りよがりな空回りに終わるしかない。 そういう意味をこめて「耕す」と使ってみた。(04/03/21)



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