テーマ:映画館で観た映画(8344)
カテゴリ:日本映画
本来親から極当たり前にもらって生まれてくるはずのものを、親の欲得のためにもらいそびれたら、子供は自分自身の力だけでそれらを手に入れなければならない。 それはとても苦しくつらいことだ。その一つ一つを手に入れるためにどれほど苦しい思いをしなければならないものか。 それはこの物語の景光と同じように、今現在の親もまた、自分の欲得や自分の人生を充実させることばかりが優先されていて、子供のことなんか二の次であることが多い事と似ている。 本来きちんと育ててもらえば、当たり前のようにしっているはずの社会常識や人とのコミュニケーションの方法や、ごく日常的な挨拶すら、親自身が忙しすぎるために教えてもらえずに、実際の人生の中で学び取っていくしかない子供が今現在多いのかもしれない。 それは、手も足も目も声も、体のあらゆるところを持たずに生まれてしまったために、自分自身の力で取り返していかなければならなかった百鬼丸と重ね合わせてみることが出来る。 自分の人生と自分の欲望のためには子供のことなどかまいもしない。その挙句子供の醜さ、面倒くささに捨ててしまうところもまた、現在の親に通じている気がする。 子供を育てるということはそんなに生半なことでは出来ない。どうしてもそこには親自身の自己犠牲が伴う。どこかの国の大臣が言ったように産みさえすればあとはほっといても育つようなそんななまなかなものではない。 その本来親の側がするはずの自己犠牲が子供の側に割り振られているのが、現代の社会であり、百鬼丸である。 その好対称として描かれるのがどろろの両親である。しかし、その親自身のすべてをつぎ込んで自己犠牲の元にやっとわが子一人をすら育てきれない、社会の悪政もまた、今の時代と同じ。 この物語は現代社会の見事な投影になっていたように思える。 しかし後半における百鬼丸の一家の全滅ってあんまりじゃないですか。 息子のためにわが身を犠牲に出来た景光がその前のシーンで奥方を一瞬の迷いもなく切り捨てたのはなぜなんでしょう。解せません。多宝丸は所詮自分の得た地位を引き継がせるための景光の分身にしかすぎないのか。景光が己の過ちに気づいて改心するにいたるまでの描写が少なすぎて、納得いかないんですねえ。 ああでも、妻夫木聡くんかっこよかったあ。百鬼丸の役がすごーくにあってたよん。 きゃああああ~~~~
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