テーマ:DVD映画鑑賞(13596)
カテゴリ:外国映画 は行
私、平和ボケしてます。 今まで見てきたのはほとんどが戦争映画だった。ハードな戦闘シーンも多かった。でもそんなものよりもっと怖いのは、やっぱりごく普通の市民が女や子供や老人までもが、死の恐怖と隣り合わせになる怖さなんですね。 1994年、アフリカのルワンダにおける、ツチ族とフツ族との民族間抗争が激化し、大量虐殺が行われた。 これは内乱だから、国連軍や諸外国は手を出すことが出来ない。今目の前で大量殺戮が行われていても、国連軍は殺される側を助けることも出来ず、手をこまねいて見ていなければならない。 一つの国がまとまるためには内乱や民族間抗争はある意味必要悪であって、そういった抗争を潜り抜けなければ、国は一つの国家としてまとまることは出来ないのではないか。そうは思ってみても、それは所詮俯瞰、神の視点であって、いざ自分がその渦中でいつ殺されるかわからないとしたら、そんなものは理想論であり、空論であり、そんなことはどうでもいいから誰か助けてほしいと思うはずだ。そして、いざ自分がその中で国連軍だとしたら、助けてといわれて手をこまねいてみていることもまたつらい。 かつてソマリアで軍事介入したアメリカ軍が、逆に現地の人々に虐殺された過去などもあり、内政干渉はできない。 しかし、かつての先進国の内戦の場合は、周りの国々も助けるほどの余裕もなかったし、敵対する部族を皆殺しにしようとまではしなかったはずである。しかし、ルワンダにおける民族間抗争は敵対する部族を全て根絶やしにして、ルワンダを一部族だけの国にしようとした。そして、周りの諸外国もまた、過去とは違っていろいろなフォローが出来るだけの経済的、軍事的余裕をもっているのも事実なのだ。 だとしたら、殺される人々を助け出す手段もあるはずだ。それでも手をこまねいてただ見ていることが、本当にいいことなのだろうか。国は内乱を潜り抜けなければ一つの国家として統一できないものなのだろうか。そして、いったい、民族間抗争の起きる原因は本当に過去のうらみつらみの蓄積だけなのだろうか。 一つの部屋で20人の子供が遊んでいる。10人は赤い服を着ている。残りの10人は青い服を着ている。そこに10人分のお菓子が渡される。 10人分のお菓子を20等分してみんなで仲良く食べるのが理想なのだが、ここで赤い服の子供が、青い服のやつらに食べさせる必要なんかない。といって、赤い服の子供だけでお菓子を分けようとしたら。赤い服の子供と青い服の子供はけんかを始めてしまった。 服の色が違うだけでみんな同じ子供なのだが。 さて、お菓子を与えた側は、黙ってみているか。みんなで分けて食べるように言うのか。あるいは喧嘩をとめるのか。 一番いいのは、最初から20人分のお菓子を与えること。そうすれば喧嘩になんかならない。でも、お菓子は十人分しかない。 どうすればいいのだろう。みんなで後10人分のお菓子を探しに行く。手に入れるために努力する。 20人で20人分のお菓子があればおなかは満腹。みんな満足して平和だ。 さて、人間同士の差異はあるのだろうか。ないのだろうか。劇中で、白人がツチ族とフツ族の女性の顔を見比べて、『同じに見える。どこが違うんだ』という。この言葉には、「みんな同じルワンダ人なんだから、くだらない争いはやめて仲良くしよう」というメッセージに感じられる。しかし、本当にそうだろうか。 確かに日本人の私の目から見ても同じに見えた。何でほとんど同じなのに、争うのだろう。 しかし、物語の最後で、主人公の妻タチアナが行方不明の兄夫婦を探し、その途中に難民キャンプでやっと姪っ子を探し当てる。たくさんいる子供たちの中から、タチアナはやっと姪っ子を見つけ出して、喜び連れ去る。 でもねえ。私には全部ほとんど同じ顔にしか見えなくてね。彼らは写真を多くの人に見せながら探すんだけど、ほんとに私には見分けつかないんだよね。でも、彼らが探し出して、面倒を見ようとしているのは、自分たちの姪であって、他の子じゃいけないらしい。当たり前だけど。でも私の目から見ると、同じなの。 もし、私の子供も含めて全部子供を集めて、そのあと、貴方は二人だねって言われて、誰か知らない子供二人渡されて、子供二人なんだから、同じでしょって言われても困ると思う。私が愛して一生懸命育てているのは、あくまで自分の子供たちなんだから。よその子を渡されて、子供なんだから同じでしょって言われてもねえ。 中国人も韓国人も日本人も、西洋人の目から見れば同じらしい。 だから、「別々の国になってないで、一緒に一つの国になって仲良くすれば」って言われても、やっぱり困ると思う。 だって、日本は日本であって、韓国とも中国とも違うんだもの。 だから、ツチ族とフツ族はやっぱりきっちり違うんだよね。彼らにしてみれば。 それなのに、同じに見えるから仲良くすればといわれてもそんなに簡単なものじゃないですけど。 喧嘩したクラスメートを担任の先生がいさめるのに似ている。同じクラスの仲間なんだから、喧嘩しないで仲良くしろよって言われても、そんな上から、喧嘩の理由も、喧嘩の実情も、当事者たちの感情のもつれも無視して、強制的に仲良くしろなんていわれても、そんな簡単に納得できない。 フツ族とツチ族を見分けるポイントは、鼻の広さなんだそうだ。 主人公のポールはフツ族なので鼻が広い。他の役者さんに比べても特にすごく広い。映画を見ている間ひたすらこの鼻ばかり見ていたような気がする。 そして、妻のタチアナはツチ族なので鼻が細い。黒人とは思えないほどきれいな鼻で、わたしはやはり映画を見ている間中彼女の鼻ばかり見ていた。きれいなんだもの。 これだけ明らかに鼻の違う二人の役者が使われている背景に監督の作為がないはずがない。 二つの種族はそれぞれに全く違うんだよと。 そして、それでも直、愛し合っている二人なのであることも。 外側からは同じに見えても、やっぱり人間は一人ひとり違う。その違いがあってそれぞれに違いがあって、その違いをお互いに認めるところから始まる。 それこそが相互理解ってもので、そういうものがあって初めて人間同士は仲良くなれるのだろう。でもすごく難しい。だから、途中で喧嘩したり、反省したり、そんな試行錯誤があるんだけどね。その試行錯誤の過程をすっきりそぎ落としていきなり仲良くなんてなれない。でも喧嘩はしても相手を殺しちゃいけないんだけどさ。 殺しちっゃたら相互理解も出来ないものね。 赤い服の子供は赤が好きで赤い服を着ている。青い服の子供は青が好きで青い服を着ている。 だからみんな同じ子供じゃなくて、それぞれに好みや趣味嗜好の違いと個性がある。 仲良く分け合うのもいいけど、20人分のお菓子を手に入れるためにみんなで協力して探しに行こう。あるいは作り出そう。そのためにどうすればいいか話し合おう。 衣食たりて礼節を知る。でしょうか。 10人分のお菓子しか用意できなかったなら、喧嘩を止めて、残りのお菓子を手に入れる手伝いやアドバイスこそが必要なんじゃないのか。 しかし、喧嘩を止めるのも命がけである。その命がけをやった男たちがいたんだな。戦争をとめることは出来ないし、全ての人間を助けることもでない。それでも、せめて、自分とかかわった人間、自分の能力で助けだせる人間をたった一人でもいいから、救い出すことが出来るなら。 目の前のかわいそうに目をつぶらない。 日本の杉原ちうねも、シンドラーも、そして、この物語の主人公、ポールも。自分の持つ特権や能力や財力や使える限りの全てのものを駆使して、自分の能力の範囲で助けられる人々を救った物語なのだ。 千人の人が一人づつでも助けることが出来れば、一人が助けられるのが一人でも、全体では、千人が助かる。はず。 それこそが神の視点ってもんだと思う。 そして、ポールが助けたのは、1200人。これは実話なんです。 作中で彼は言う。「品格がわれわれを助けるのだ。」ホテルミルコリンズの四ツ星ホテルとしての、品格。そして、ポールの人としての品格。なんだろうと思う。 そしてさらに、ルワンダというホテルもまた国民が気持ちよくすごせる品格を持ってほしいと。 追記を書き足しました。こっちも読んでね。 ホテル・ルワンダ@映画生活
お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
[外国映画 は行] カテゴリの最新記事
|
|