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2007年2月12日~2010年3月15日まで、西荻窪にてヒーリング・ショップgabrielle(ガブリエル)を経営しておりました。
一時閉店以降も引き続きブログを更新してまいります。
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母が余命一か月で亡くなってから早くも3年10カ月が過ぎました。
母亡き後の父はまるで生ける屍のようになり、母を失った悲しみの中で生活しておりましたが、その父も今年の一月、念願叶って冥土へと旅立ちました。 17歳に出逢った時から私を常に支え、励まし続けてくれたアメリカのママも2年半前に亡くなりました。 付け加えて、14年家族と共に暮らした犬も一昨年のクリスマス前に旅立ちました。 身近な人たちが旅立つごとに私にとっての「死」は更に身近なものとなりました。 「死」はあの世とこの世の間にある「ドア」に過ぎないと思いながらも、現実に訪れた「死」はそれまであった人生の色を確実に別の色へと導くものでした。 人はそうやって「死」と向き合い「死」を受け入れていく。いや、「死」によってもたらされた新しい環境に慣れ親しんでいく。 大事な人がいなくなる。 大事な人ともう会えない。 「死」が重なるにつれ、「死」は大事な人たちと自分を切り離す残酷な壁のように思えてきました。その壁があたかも存在しないものと思えるようになるには時間が必要です。 父の安息を願いながらも父との今生の別れは辛いものでした。 父が亡くなってから5カ月が過ぎても沈んだ気持ちが続き、どうしたものかと思いながらも時が過ぎるのを待つしかないとあきらめていた時、あることがきっかけでスコットランドの友人とマッターホルンに行こうと思い立ちました。 人生の不思議は準備が整った瞬間に舞い降りてきます。これは私が今まで生きてきて体験してきた事実です。 スイスには友人が二人いるのですが、その内の一人も昨年お父様が他界されたばかりで、私がスイスに行く話をすると一緒にユングフラウに行こうと誘ってくれました。 登山は大好きですが、マッタ―ホルンもユングフラウも標高が高すぎるので登るのではなく周りのハイキング・コースでその雄大な姿を拝むに留め、とにかく元気になることが第一目標の旅でした。 まだ6月ということや今年は大雪で天候も悪かったことなどがあり、最初は現地の人からはマッターホルンが見られるかどうかと言われていました。けれどゴルナーグラート展望台に着いてしばらく待つと周囲の雲がきれぎれに散り、マッターホルンの美しい姿を拝むことが出来たのです。その美しい姿は想像を絶するほどにやさしく穏やかで、涙が次々とこぼれ落ちるほどの感動がありました。「神」という存在が「聖なるもの」の象徴なのだとしたら、この目の前の山こそが神だと思いました。 ユングフラウでは周囲の山を登りながら、澄み切った空気をたくさん吸い込んで、上流に流れる冷たい雪解け水をいただきました。 山を登ったり滝や沢巡りをしたりとベルナ―オーバーランド地方を何日も歩き続けたのにもかかわらず疲れを感じることなく数日が流れ、そして気が付くと心身共にとても元気になっていたのです。 アルプスの少女ハイジが山を離れてドイツの街で病気になった時も山に帰ると元気になりました。歩けなかった少女クララもスイスの山で暮らし、歩けるようになりました。 これは山の自然が起こす奇跡なのだと思います。私も自分でも信じられないほど元気になりました。 山々を巡る旅が終わった日、チューリッヒの花屋さんでエーデルワイスを見かけました。 「サウンド・オブ・ミュージック」の挿入歌としても有名なアルプスの花です。 ネットや本で見たことはありましたが、想像していたよりも小さい花だったので驚きました。そして花が挿してあるビンを手にした私は、迷いもせずにレジに向かっていました。 エーデルワイスの花言葉は「尊い思い出」、「勇気」、「忍耐」。 その名はドイツ語のEdel(高貴な)Weiss(白)に由来し、学名のLeontopodium(レオントポディアム)はギリシャ語のleon(ライオン)にpodion(小足)。綿毛に覆われた花の姿がライオンの足を思わせるからだそうです。 実際に花の周りや葉に綿毛が生えていて、全体的にフェルトのような柔らかさがあります。 想像もし得なかったその可憐な姿に心惹かれながら花を愛でていたら、この小さな可憐な花がスイスやオーストリアの国花として選ばれた理由がわかるような気がしてきました。 エーデルワイスはアルプスの山に咲く高山植物です。 夜空の星がアルプスに落ちて花になったという言い伝えもあるそうです。星形で綿毛に覆われたふっくらとした花弁は寒さに耐えるための装具のようにも見えます。 寒さ厳しい高い山の岩壁を好んで生息し、太陽が一番近い場所で凛と咲くエーデルワイスからは強く生きる志が伝わってくるように思いました。 「生きる」ということの意味を追及していくと時に迷子になるような感覚に陥ります。「生きる」ことが厳しくなる時期、「生きる」ことが困難になる時期、「生きている」ことが実感できなくなる時期、そのような時期があるからこそ「生きる」ことの本当の意味を見つけていくことが出来るのかもしれません。 「死」は確実に誰にも訪れます。 だからこそ、自分の人生の終わりが自然にやってくるその時まで、生きる知恵を身に付け、人生を全うしようと思います。 両親が亡くなり人生の色が変わったとしても、新たなページがめくられて明日が始まります。 帰りの飛行機の中で、なぜか「カンフー・パンダ」を観てしまいました。そして亀の仙人があの世に旅立つ前に言ったセリフに感動しました。 「昨日はヒストリー。明日はミステリー。そして今日は贈り物だよ。」 スイスの美しい山々やエーデルワイスからもらった「これからを生きる力」はまさに贈り物であり、明日からまた始まるミステリーに挑む源になることは間違いありません。 今、感謝の気持ちでいっぱいです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2013.07.27 16:34:42
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