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パチンコの魔力は絶大である。これほどの吸引力を日本のサッカー界が獲得するのはいつのことだろう。気力の萎えた夏の終わり、たまたま目に入ってきた3つのパチンコにまつわる文章を読んで、つくづくそう思った。1つは、つい数日前に幼児が自宅で火事にあい亡くなった間、夫婦が2人で朝からパチンコに出ていたという新聞記事。2つめは、婦人公論9月号の。パチンコにハマってしまい、そこから脱出した主婦の手記。3つめは、ドナルド・リチー「イメージ・ファクトリー」のなかの、パチンコというエッセイである。
私はパチンコはやらない。でも、それはほかに趣味(!)があるからで、たぶんその1つはサッカーになる。ヨーロッパにいれば、よくある休日の時間の使い方かもしれないけど、日本にいるとパチンコの方が普通だろう。週末にパチンコ屋が繁盛しつづけている限り、Jリーグに人は集まらないだろうし、ましてtotoは売れようがない。それにしてもパチンコだけはどうしても輸出になじまない国内産業のようで、不思議な現象である。西洋人が気にとめるのはわかる。 私の家から駅につく途中でさえパチンコ屋は3軒。駅周辺の街にはさらに数件。店の入れ替わりが信じられないほど早い街なのに、パチンコ屋だけはつぶれたのをみたことがない。もちろん、どんなに建物の少ない地方に出向いても、巨大なパチンコ屋は必ずあり、コンビニには専門誌が置いてあるものだ。 パチンコは孤独な行為だとリチーはいう。反対に、サッカー観戦は孤独でない。一人で見に行ったとしても、同じ試合を共有しているからこそ得られる一体感があるからだ。確かにパチンコは、狭い空間に皆で並んでいながら、全く違う台に専念する。その光景を覗くと異様な感じがする。パチンコにハマった主婦の手記によれば、孤独になれるからこそ、彼女はそこへ行くようだ。家族や職場の濃密な人間関係という「うざったい」ものから一時逃れられ、ときに大もうけができる魅力的な場がパチンコなのだ。幼児をおいてパチンコに出かける、という逃避の仕方には、偶然ではない切実さがあるのだ。大音響の刺激に満ちた空間の中で、誰にも邪魔されずに没頭する、という魔力と対抗できる手軽な遊びはそうみつからない。 かくいう私も、6才の誕生日に「欲しいものを買ってあげる」と申し出てくれた親の友人に「パチンコ台」と言って驚かれた過去がある。当時住んでいた工場地帯には、無数の廃棄パチンコ台が放置され、私はパチンコ玉をコレクションしていた記憶があるから、そのせいかもしれない。その精巧にできたおもちゃのパチンコに飽きたのだろうか(笑)。以来、行きたいと思ったことはない。 パチンコ屋にかげりがみえ、日常生活がもう少し孤独になったころ、サッカーはもう少し人を集めるのに成功するだろう。もしかすると、Jリーグに観客の集まる地方都市では、そろそろパチンコ屋の集客力に少し陰りがみえているかもしれない。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2005/09/05 12:23:26 AM
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