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![]() 川柳「さくらぎ」会員募集中・・・・・・ 川柳をはじめてみませんか…。 <玄武洞川柳道場>は、川柳作法の手ほどきから、その作者が何を求めているかを見つけるお手伝いをします。川柳を通じて、自分発見の旅をはじめてみませんか。 また、川柳を総合文化と捉え、川柳をベースとして関連知識を学び、作家自身の成長を目指すとともに川柳の社会化を図ります。 <川柳千夜一夜>は、できるだけ毎日、川柳について幅広い側面から語ってみようと思います。1000回続けたとき、私自身にもきっと役立つ情報源になると信じ、続けることへの努力をしてみたいと思います。日記は、三日坊主で何度も止めた私にとって、自分自身への大きな挑戦です。 川柳251年目からは、川柳の文化発信・研究の基盤となる川柳博物館の設立を目指して活動いたします。皆様のご支援をよろしくお願い申し上げます。 ホームページ《ドクター川柳》には、川柳の知識や情報がいっぱいです。ご訪問お待ちいたしております。 玄武洞川柳道場 凡日抄 [全459件]
夜逃げをするのではありませんが、写真の容量がいっぱいになり、やむなく引越しいたします。 以下のバナーからリンクしています。 ![]() 長らく、楽天さんにお世話になりましたが、システム上の都合で残念です。 こちらの情報は、削除せずに残したいと思います。 特に、川柳250年の日記は、そのまま記録として生きています。 今後ともよろしくお願い申し上げます。
年賀状は、ものごころついた頃から欠かさず出してきた。 唯一、11月末に祖母が亡くなった年だけは、年賀状を買っただけで出さなかった。 今年も楽しみのお年玉抽選。 500枚を越える今年のお付き合いの結果を、娘と女房が一枚ずつ楽しんだらしい。 「当ってたわよ…」というので、成果を聞いたら、なんと末等が4枚と言う。 「よく見たか…?」とつい聞き返してしまった。 例年であれば、当らないといっても切ってシートが10枚以上の成果。今年はヒドイ。 ところが、20枚にも満たない娘…巳年…は、3等のブランド食材が1枚当ったそうだ。 人生、仕事の時間や数ばかり多くあっても、なかなか報われない私のような子年と、ほっておいても他者さまから運が向く三柳や娘のような巳年の違いがあることを、まざまざと見せつけられた。 ところで、写真を多用してきたブログはきれいで、記録にもなりましたが、いよいよ50MBの許容量にひっかかってしまいました。 フリーのシステムだからしかたありませんが、残念ながら古い写真の整理が必要なようです。 楽天さま、もっとアルバムスペースをくださいませ…。
<川柳画>という用語があります。 川柳に絵を添えて、その意味を、より分り易く、また面白くしたものです。 これは、川柳にはじまったことではなく、既に川柳画に先立って、句に絵を賛した作品は、狂歌や俳諧(または発句)への添え絵があります。 狂歌では、すでに明和7年(1770)の英一蝶による『一蝶画譜』の中にそれが見られます。 ![]() 猿ひき われかれを廻すと嘘は思ふらめ まわされて世を渡たる猿曳 大川の遊山舟を相手にしての舟に乗った猿曳(猿廻し)の絵が右の狂歌に添えられています。 まだ、川柳画が生まれる65年も前のものですが、その後、〈川柳画〉としてイメージが形成されていく原形質が、柄井川柳在世中の『誹風柳多留』五篇と同じ年に、同じ短詩型の狂歌で見られることは、川柳と絵が出会ってゆく過程として、興味深いことですね。
川柳は、句会、公募などに投句して<競吟>を楽しむ一般的切り口があります。句会において入選することは痛快です。入選には、ある種のカタルシスがあります。また、句会を通じて、同行の士とめぐり合い、新しいコミュニケーションができるでしょう。 同じ、川柳を作ることでも自分自身を見詰め、真の自分と出遭うような、<作句>の喜びもあります。こちらは、句による競争というものではなく、「作家」として自らの存在自体を表現することです。これらの句から、人と人との心の繋がりができるでしょう。 そして、川柳には<読む>楽しみがあります。古川柳以来、250年間に作りつづけられている作品を読むことによって、その時代時代のニンゲンの在り方が垣間見えます。特に、風俗や習慣、考え方など、時代を生に表現した名句の鑑賞は、愉しいものです。 さらに、川柳には、作品をやり取りする楽しさがあります。出産、入学、結婚、昇進、出版…など、人生の節目節目に、お金やモノだけを贈るのではなく、祝吟を一句添えることで、そのコトバのプレゼントは一生の思い出になります。 また、大切な方が亡くなった時に作る一句は、追悼句として家族へ贈られるとともに、作者自身の心のメモリアルになります。 川柳の文化としての広さは、ちょっとやそっとでは語れません。 いっしょに、川柳で人生を二倍に生きてみませんか。 嬉しい時の一句は、喜びを二倍にし、悲しいときの一句は、悲しみを半分にしてくれることでしょう。やさしく、入門から、作家の要請、指導者の指導、専門研究者への資料提供からアドバイスまで、玄武洞川柳道場で知的汗を流してみませんか。 一度、こちらを覗いてみてください。 ![]()
絵(特に簡略画や俳画)と川柳、写真と川柳の組合せは、新しい表現世界を生み出してきました。 漫画家の宮尾しげをは、「川柳の賛に画をつけたものを、川柳画と云う」と定義しています。 川柳史の中でさいしょに登場した川柳画と呼べるような作品は、明和7年(1771)刊の『誹風柳多留』五篇にあります。 ![]() Web川柳博物館(朱雀洞文庫)蔵 これは、呉陵軒可有の序文に添えられたものです。 もっとも、「川柳画」というよりは、当時の川柳風組連の主な名を幔幕に記し、これに あぶみへもつもれ初瀬の山桜 という、おそらく呉陵軒による宣伝的な句を添えたものでしょう。とても装飾的です。 「あぶみ」は馬に乗る時に足をかける部分のことですが、「あふみ」すなわち「近江」につながり、当時大きな取次(これが後に今日でいう吟社のような作家の集まり「連」になります)の名前です。「初瀬」も山の手の大きな取次名。「山桜」は、下谷の川柳風の旗本でもある「桜木」を表しています。いわば、コピー広告にもなっています。 右から幔幕の名前を挙げると「梅」「籬」「柳水」「水仙」「若松」「兜」「松葉」「錦」「霞」と読むことができます。 柳多留も五編を迎える頃には、柄井川柳という点者が江戸の前句附界を代表する存在となり、押しも押されもせぬ点者となっていました。この絵からは、その自信が伝わってくる気がします。
書庫で資料を探していたら、懐かしい雑誌が出てきた。 「まんがっぽ」。もう30年以上も前のものだ。 ![]() 川柳とマンガは、絵本柳多留などと称して江戸時代から人気があった。 新川柳になってからも、<川柳漫画>という用語ができるほど人気があった。 今日では、独立したジャンルとして発表されることは少ないが、多くの雑誌で川柳とマンガのコラボレーションが行われている。 川柳とマンガは、互いを補完しあい、より面白い表現としてアピールをもつ。 そんな中に「衡己(ひでき)」の名を見つけた。 15歳の川柳作品が、はじめて雑誌に載った嬉しい想い出。 ![]() 瓢太郎(竹本)さんのような東京のドンに混じって、私の名があるのは、今見ても嬉しい。 残念ながら、私をかわいがってくれた小鍛冶(本間)さんや、鱗太郎さんは、もう亡くなってしまった。 川柳も、大きく世代が変わってしまい、昔を偲ぶようになったということは、私も年を取った証拠なのだろう。 |一覧| |