いつのころか、その名を呼ぶことを許された。
その名を口にすると、胸に湧き上がる熱い感情。
その熱さに、幾たびも救われてきた。
その感情を、どう呼べばよいのだろう。
その名だけが帯びた感情は、
ただ、ただ、かけがいのない、ひとりの姿に重なる。
水の流れの上に落ちた一枚の木の葉。。。
例えて言えば、そんな感じだった。
そのようにして、ずっと、ひとり、漂っていた。
ふと、気づくと、同じような木の葉が、近くに漂っている。
それぞれに、ひとり漂い続けるなら一緒に、と語りかけると、
その木の葉は、ためらいながらも、受け入れてくれた。
そして、今、ふたつ重なり、ゆらゆらと漂っている。
ふたりで、どこに流れ着くかは、わからないが、
ふたつ重なり、漂い着く先ならば、どこであってもかまわない。
桜が、静かに散っている。
柔らかな春の日がさす中に、
音もなく、春風に、花びらが舞う。
そのひとひらが、わたしの手に舞い降りる。
この手に舞い降りたのは、いったい何のはからいだろう。
それは偶然か、それとも運命なのか。
おそらく、運命は偶然が生み出す。
運命と偶然の違いは些細なものに過ぎない。
そよ風が頬をなでる。
舞い降りたひとひらは、再びその風に乗り、
いずこかへと舞い去ってゆく。
いとおしい感覚が手に残る。
きっと、それは、間違いなく運命になる。
靴を磨く。
たいていは、金曜か土曜に磨く。
日曜には磨かない。日曜に磨くと気が滅入る。
靴は、背広と同じく仕事とつながるアイテムだが、
果たして、仕事が好きなのか、嫌いなのか。。。
靴を磨くのは、他界した親父の影響だろう。
地位も名誉も金も、人に優れて得ることは無かった男だったが、
良く靴を磨く男だった。
人あたりが柔らかく、分け隔てをしない人柄と言われた様だが、
それは、生まれ持った性格であって、努力して磨き上げた性格ではなさそうだ。
その人生にも、時には、楽しいこともあっただろう。
たまには憤ることもあっただろう。
小ずるい事も、おそらく、しただろう。
知る術は無いが、艶っぽい事柄もあったのかもしれない。
けれど、強烈で、激しい人生を送ることはありえないし、望みもしない。
息子から見れば、その人生は、穏やかで平凡なものであったと思う。
靴を磨く後姿。思い返すのは、そんな、ささいなことばかりだ。
かつて、そんな親父を超えたと思ったときがあった。
ただ、今思えば、それは一時の気の迷いか、何かの勘違いだったようだ。
自分の中にある、父親から受け継いだもの。
それを、かつては嫌だと思ったが、今は静かに、それと対話ができる。
道標となるような男ではなかったが、この上ない親父だった。
今日は彼岸。
朝方には激しい雨が降ったが、昼過ぎに止み、やがて透き通る青空になった。
彼岸と此岸が交じり合う、この日にふさわしい「はからい」なのかもしれない。
「はからい」というものが、もし、あるとするならば、
それは、きっと、このような、ささやかなものに託されている。
今は、そう思う。

それは秋。。。
やがて、冬が過ぎ行き、春が来る。
そう、そのようにして春が来る。

家に篭り、本などをめくっている。
気分として、散文は受け付け難い。
なので、古い歌集などをめくって、慰みとする。
いくつかの歌に目が留まる。
そんな歌には、今の自分の季節を映す何ごとかが、
おそらく、含まれている。
埋み火に 少し春ある 心地して 夜深き冬を なぐさむるかな 藤原俊成
遠山に日の当たりたる枯野かな 高浜虚子
より深く、ほかの誰よりも深く、到達する。
記憶に残るものを、そうして俺が凌駕する。。。
女の肌から芳香が漂い始める。
その芳香は、男を、より強くする。
記憶
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[ そして。。。 ]
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その肌の感覚は
指先よりも 唇に
たしかな記憶が残っている
あの夜。。。
愛おしく なめらかな その肌の
その全てに 唇を重ね合わせた
だから。。。
唇に その記憶が残る限り
その肌は 俺のもの

強い風が吹き抜ける夜 久しぶりにその場所にきた
そこは青春とやらの残滓が かろうじて残っている場所
I JUST CAN'T STOP LOVING YOU
Each time the wind blows
風が 吹き抜ける
I hear your voice so
風に 君の声が 聞こえる
I call your name
風の中に 君を呼ぶ
Heaven's glad you came
君がいる ただ それだけで いい
(Michael Jackson)

仕事では、昼休みというものは、有って無いようなものだが、
その分、込み合う時間をはずして飯を食いに行けることが、救いといえるかもしれない。
今日は、仕事場から歩いて10分程度の、蕎麦屋に行くこととする。
その店は、オフィス街からほど遠くない場所にある老舗だが、
着流しの旦那衆が、昼から、焼海苔やら柱わさびとかを肴に、
熱燗で一杯やっているような粋な店だ。
やせ我慢で言うわけではないが、本当に旨い物を食いに行くときは、ひとりで行くに限る。
人とつるんで行くと、時間やら相手のペースなどに気遣いをせねばならぬときもあり、
大げさに言えば、味覚に神経を集中させることができない。
ただ、今は、誰に気兼ねすることなく、運ばれてきた蕎麦の香りを、ひとり堪能する。
大勢の会食や気の置けない仲間と過ごす楽しさはもちろんあるが、ひとりならではの楽しみもある。
男に生まれたせいもあるが、ひとりで飯を食い、酒を飲むといった修行は
好むと好まざるとにかかわらず、経験をつんできた気がする。
なので、今、自分が感じているこの風情は、些細ではあるが、
これまで、自分が勝ち取ってきた、風韻のようなものかもしれない。
それは、風のように、実態の無いものに過ぎないが、
今は、しばらく、蕎麦屋の喧騒の中で、ひとり、その感覚にひたることにする。
まだ、人生などというものを語る段階では無いが、
何が、その人にとっての楽しみや幸いとなるかは、わからないものだと思う。