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げっそり深海魚

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2012.05.26楽天プロフィール Add to Google XML

レジ袋不要の意思表示

 スーパーでレジに並んでいると、客がレジ袋が要らないことを示す袋不要札のようなものがある。かねてから、これはバカバカしいシステムだと思っていた。要らなければ要らないと口で伝えれば済む話だからである。


 ところが最近、実は札があった方がうまく行くのではないか、と思えるできごとが相次いだ。私の買い物は少ないので、会計が終わると店員が勝手にレジ袋に品物を詰め出すことがある。あるとき、いつものように「袋、要りません」と云ったにもかかわらず、店員が気を利かせたのか、てきぱきと袋に詰め始めた。それで「要らないって云ったじゃない」といったら、店員は、「そう云いましたか?」などと絡んできた。しかもそう云ったときには品物の全てが詰め終っていた。私は今更袋から全部出せとも云えず、釈然としない気持ちで詰めた袋をもって帰ってきた。レジ袋なしなら値引きする店があるが、そう云う店なら多分袋から出させただろうから、事態はもっと面倒になっていたかも知れない。


 それからしばらくして、別のスーパーでレジに並んでいたとき、私の前の初老の客が「袋、要りません」と云ったら、若い店員が「袋なしで?」と聞いた。その客が、「いや、袋持ってる」と云ったら、「持ってない?」と云うので、「いや、あるんだよ」「だから、袋なしで?」と押し問答になっていた。想像するに、これはこう云うことだと思う。店員にとっての「袋なし」とは店側が袋をつけない、と云うことだが、店員に「袋なし?」と聞かれた客は、咄嗟に「あなたは袋をもっていないのか」と聞かれたのだと勘違いしたのである。それで客は「持ってる」と云ったが、レジのような騒がしい場所ではしばしば語尾が聞き取れないので、店員には「持ってない」に聞こえた。それで客が誤解の余地のないように「ある」と云ったのだが、それを店員は再び自分にとっては自明だが、客にとっては誤解を招きかねない、「袋なし」と云う表現で念押ししたのである。


 これらは日常起こりがちな、他愛もないすれ違いに過ぎない。笑い話と片付けることは簡単だが、最初から札を出しておけばこのような誤解を避けられた、と云うこともまた事実である。それで私は先週から、レジ袋不要の場合は店員に口頭で云うのは止め、札を示して意思表示することにした。



最終更新日時 2012.05.26 15:33:09
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2012.05.19

私の二面性

 よく「何を考えているのか分からない」とか、「敵か味方かはっきりしない」とか云われる。その理由は分からないではない。思うに、私の人の話を聞く態度が二面的だからだと思う。


 私は初対面の人間と雑談するとき、あまり遮らずに、相槌を打ちながら話を聞く。このとき、私は必ずしも話の内容を聞いている訳ではない。寧ろ、話の組み立て方、呼吸の入れ方、言葉の選び方などを観察し、相手がどう云う人かを観察している。しかしこうした聞き方は、人に自分の話を聞いてくれる人だ、と云う誤解を与え易い。そして好感をもたれがちになる。


 関係が少し進むと、そう云う人は得てして相談をもちかけてくる。私は肯定的にも否定的にも答えを返さず、「そうですなあ」などと云って、相手の反応を見るために黙り込む。この沈黙には思わぬ効果がある。その人が、結果的に自分で答えを見つけ出すことが多いからである。人によっては私が何も云わないのに、感謝してくる場合すらある。かくして、好感はますます深くなるものらしい。


 しかしこの段階を過ぎると、私への評価は殆ど百八十度反転する。人は私を与し易しと見て、頼みごとをしてきたり、強気の交渉をもちかけてきたりするが、私の思わぬ拒絶に会って驚くのである。つまり、状況が不可避的に私にそれを求めるので私ははっきりと自分の意見を云うが、それは多くの場合、相手が私の本音を聞く初めての機会に過ぎない。私にすれば、意識的に冷たいことを云う訳ではないが、「この人は親身だ」と思われていた分、ギャップの大きさが悪印象を残すことになる。ひどいときには、それが理由もなく手のひらを返したように思われるのかも知れない。


 最初に二面性と云ったが、私の前半の聞き方は、期せずしてカウンセラー的な聞き方になっている。しかし最後の段階での接し方は、人と議論を区別する交渉術に近い、どちらかと云えば散文的な対応である。人から見て「私の謎」と映るもののからくりは、恐らくそのようなことだろう。私としてはこの対人法を直すつもりは今のところないので、これからも気の毒な被害者が出続けるかも知れない。



最終更新日時 2012.05.19 20:43:48
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2012.05.12

戦後教育で幼稚になった老人たち

 私は最近、自らそこに育った戦後教育に対して批判的だが、それをもって即、戦後の日本人がだめになったなどと云いたい訳ではない。戦後教育は勿論ある程度は機能したのであって、これは条件付きで評価すべき点が極めて多い。問題はそれが制度疲労のようなものを起こしている現状にある。今更右肩上がりの経済は望めないし、人口は減るし、日本を取り巻く地政学も変化している。そう云う中では嘗てよしとされたものが、却って害を生まないとも限らない。それならばどうしたらよいかと考えるに、戦前的なものの部分的な復活が何がしかのヒントになるのではないかと、素人くさく思いついただけである。


 戦後の日本人が軟弱になったと云う議論、特にここ数十年で道徳的に劣化したと云う話はよく聞く。私はそれに直ぐには与しない。古代エジプトの昔から、大人たちは若者の軟弱を嘆いてきた。「最近の若い奴らは」とか、「おれたちが若い頃は」とか云い出したら、それは老化の兆候だと考えてほぼ差し支えない。しかしより重要なのは、一方でそう云う人間は必要だと云うことである。社会を構成する人間にはさまざまな役割がある。若者は大人たちの無理解に苦しみ、社会を支える中高年層は世の中の世知辛さや中間管理職の悲哀をもらし、老人は世の中の軽佻浮薄化を嘆く。それがまっとうである、否、そうでなければならない筈である。私は年寄り風を吹かせる老人らしい老人の方に、年寄りのくせに若い振りをする人間よりも大きな親近感をもつ者である。


 若者の精神の低年齢化が進んでいると云うが、今日では本当は老人の精神の低年齢化の方が問題ではあるまいか。今の日本の若者はこれから苦労するだろうから、精神もそれなりに涵養されるだろうが、高度経済成長やバブルに狂い、苦労知らずにやってきた今の六十代の人間たちが、嘗てのどの世代よりも幼稚なのではないかと云う感慨を私は禁じることができない。孤独死を大げさに騒ぎ立て、老いを怖がってアンチエイジングに飛びつき、若者に対してピントはずれの寛大さを示そうとするこうした老人たちへの違和感もまた、私が戦後教育に批判的にならざるを得ない、一つの要因である。



最終更新日時 2012.05.12 11:08:05
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2012.05.05

短所を矯める精神

 戦後教育の弊害の一つは、長所を伸ばすことが重視され、短所を矯めることが軽視されたことかも知れない。これは教養の没落と一脈通じている。教養課程では否応なしに自分の知らないことを勉強しなければならない。否、知らないことこそを勉強しなければならない。それは即ち、短所を矯めることに他ならない。


 勿論、たかだか数年勉強したくらいで自分が知らないことの全てが分かる筈もないが、教養課程の狙いは、知識量を増やすことそれ自体よりも、よく知らないことを怖がらず面倒くさがらずに勉強する基礎体力を身に着けることにある。一般に、若い時期に教養を積んだ者は、その後の人生で困難に直面しても、勉強して自らの無知や不得手を修正することを厭わない。対照的に、教養をおざなりにしたものは、いつまでも自分の得意分野に拘り、自分の未知の分野を敬遠して、短所を矯める努力を怠りがちになる。第一、矯めようにもそのやり方が分からないし、経験もないからである。「個性を伸ばしましょう」と云う言葉と裏腹に、実は大した個性もない、スケールの小さい人間を大量生産してしまったのが、戦後教育の本質だったのではあるまいか。


 最近はその傾向に更に拍車がかかっている。時間のサイクルが早くなり、教養などに時間をかけず、さっさと専門に入ろうとする人が増えたからである。しかし、スタートの速い方がアドヴァンテージにはなると云うのは、ある程度までのことに過ぎない。一見、何の役にも立たないかも知れない教養をやってきた連中の方が、出足こそ遅れるものの、長じて長足の進歩を遂げるのは論を俟たない。教養のあるなしでは、想像力、応用力が桁外れに違うからである。教養を軽視して専門的なことに早くから入る、それも効率至上主義で合理的にやろうとするのは個人主義、実力主義のアメリカから来たものだろうが、私見では、いくら戦後日本がアメリカ化したとは云え、歴史も成り立ちも異なる日本社会にはこう云う教育はそぐわない。


 今、日本の大学はどこも教養や人文科学を無駄と考えて切り捨てる傾向にあるが、本当はこれは逆ではあるまいか。「うちは実社会で直ぐには役に立たない教養しかやりません」ときっぱり云う私立大学が、一つや二つはある方が望ましいと思う。



最終更新日時 2012.05.05 16:52:10
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2012.04.28

知性と不動心

  「不動心に必要なのは意志である」と主張する連中は、事前に可能な事態を想定し、対処法を準備しておくと云う考えを嫌い易い。彼らがよく指摘するのは、人の知性や想像力には限界があり、全ての可能性を想定することなどできない、と云うものである。そこから、どんなことが起こっても乗り越えられるのは、鉄の意志によって鍛えられた不動心以外に有り得ない、と云う結論が導かれる。


 しかし意志よりも知性に与する私は、知性でもって全ての事態を想定できると云っている訳ではない。世界が無限にして人間が有限であることは、論を俟たない。私の論点は、まず何が起こるか分からないと前提した上で、想定外のものについては諦めてこれを受け入れる覚悟をせよ、次に想定できるものについては予め考慮しておき、それへの対処法を講じよ、と云うことに過ぎない。私の乏しい経験から云えば、やれることはやっておいた人の方が、同じ想定外の事態に直面しても、やれることをしなかった人よりも落ち着いているように思われるからである。


 人間が学べるのは自分の経験からだけだとしたら、そのような少ない経験からでも、学んだ方が学ばないよりはましである。この無限に広がる世界の中で、人間の経験がどれだけ増えても、知らないことは聊かも減りはしない。だからと云って最初から学ぶのを放棄する人間よりも、限界は知りながら少しでも学ぼうとする人間の方が、知識に於いてよりも、知恵に於いて大きな果実を手にする。そして私の云う知性とは、この知恵のことに他ならない。


 知識は人間を尊大にし、知恵は人間を謙虚にする。先の震災に関して云うなら、あの大災害から教訓を得て、高い津波に十分に耐える堤防を築くことは、危機管理として非常に重要なことだと思う。しかしそれにも況して重要なのは、どれだけ高い堤防を築いても津波を防げないかも知れない、と常に健全な想像力を働かせておくことである。



最終更新日時 2012.04.28 17:24:25
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2012.04.21

不動心について

 あるとき、勝負に於ける不動心を巡って、人と議論になったことがある。相手は「不動心に必要なのは意志である」と云った。私は反論し、「不動心に必要なのは知性である」と云った。


 私の主張は以下の如しである。不動心とは硬直したものではなく、柔軟なものである。即ち、不動心とは如何なることが起ころうとも、それに落ち着いて対処する心構えができていることを意味する。それでは不動心はどのようにして得られるか。最善の場合から最悪の場合まで広く考え、そうなったときにどうするかを事前にイメージしておくことこそが肝要だろう。鉄の意志などと云うものがあったところで、それは一体どのようにして作ればよいのか分からないが、観察力と記憶力、思考力と想像力を適切に鍛えれば、誰でも不動心を持てるようになる筈である。


 すると相手はこう云ってきた。人間は暗示にかかり易いものである。成功すると思っていたら成功するし、失敗すると思っていたら失敗する。強く思って実力以上の自分を引き出すことが意志の強さであり、鉄の意志は何度も何度も自分に繰り返し云い聞かせることで獲得されるものである。こうした鉄の意志こそが不動心の本質を成すのであって、情報や知性に訴えるのは、肝の据わらない人間のその場しのぎの小賢しいやり方でしかない。あなたのように最悪の場合など想定するのでは、本当にそのようなことを招きかねず、戦う前から心の勝負で負けている。


 私は何か話がずれていると思ったが、取り敢えずこう云っておいた。私は自己暗示を否定しないが、あなたの方法ではエネルギーを過剰に消費する上に、短期決戦なら兎に角、不確定要素の絡む長期戦になると、対応できない。一方、私の不動心は適切な労力で得られるものであるのに加え、戦いの長短に無関係に対応できる。また、私は最悪の場合を想定しておくのは人生の如何なるときにも必要であると信じて疑わないが、その本意は、最善の場合も最悪の場合も等しく起こる可能性があると覚悟せよ、と自分を突き放して云うだけのことであって、自らを如何なる暗示にかけようとするものでもない。



最終更新日時 2012.04.21 12:30:02
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2012.04.14

遅咲きの桜/車窓の風景

 今年の冬は寒くて長く、先週あたりからようやく桜の見頃を迎えた。私のような無風流な人間が桜などと云うと笑われるかも知れないが、私は桜花そのものの可憐な美しさを愛でるよりは、その散り際の潔さを感じ、そこから死を思うのが常である。


 最近は都会の孤独死がよく問題視される。しかしネガティヴな色付けは、人を飽き飽きさせる効果しかない。私自身は、誰に看取られることもない、孤独死こそが何にもまして好ましいと考えているが、そう思っている人は少なくない筈である。しかしそのためには、いつそうなっても構わないだけの覚悟を怠るべきではない。遺産分割を含め、死体が腐敗する前に孤独死をどのようにして周囲に知らしめるか、弔い方はどうしてもらうかなど、考えておくべきことは少なくない。今年は見送ったが、不惑の年を迎える来年の春には自分の財産をチェックし、エンディングノートを作るところまでやっておきたい、などと遅咲きの桜を見上げながら思っていた。


 ところで、私にとって毎年車窓から見える桜は楽しみだが、電車は多くの面積を窓に費やしているのに、携帯電話や本に目を落とし、外を見ている人が年々減っているのは残念である。時間の有効活用に急いて文字を追ったり情報を取り込んだりするのではなく、虚心坦懐に移りゆく景色を眺めて、あんなところにも桜が、などと意外な発見をするの楽しさを多くの人に知って欲しい。今でも小さなモニターをドア上部に備え付けて天気予報など流している車両はあるが、そんなものよりも、車窓から見える風景は財産であり、鉄道会社にとっても遥かに強みである筈である。ローカル線のみならず、都会の鉄道でも、「うちはこう云う場所を走っています。これはうちの電車からしか見えません」と云うアピールがもう少しあって然るべきと思う。



最終更新日時 2012.04.14 16:23:24
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