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同じ文章を書くといっても、論文と小説では全然違う。違うどころか、正反対である。一言で云えば、学問の文章は複雑なものを単純にする、或いは、未知のものを既知にする文章である。これに対し、芸術の文章は単純なものを複雑にする、或いは、既知のものを未知にする文章である。養老孟司が、学問は「生きたイカを死んだスルメに変える」作業だと云ったことがあったが、それに対比させれば、芸術は「無から生きたイカを生み落とす」作業だと云えるかも知れない。
論文を書いているときと小説を書いているときとでは、当然頭脳の働きが異なる。私自身の経験で云っても、両者では、脳の全然別な場所を使っていると云う気がする。論文の場合、それを書き出すまでに準備が必要になる。資料を揃え、論文の骨格を決めておかねばならない。しかし小説は書き出すまでの準備がそれほどいらない代わりに、書きながら試行錯誤し、苦心惨憺し、七転八倒することになる。勿論、下絵と云うか、青写真のようなイメージがない訳ではないが、それを裏切ってゆくことが小説であり、また裏切らなければいい小説とは云えない。乱暴に云えば、考えてから書くのが論文であり、書きながら考えるのが小説だと云えるだろう。
小説は、それを書く者の心理を、大げさに云えば人間性を、強烈に揺さぶる。そして作品の評価や、作品の報酬よりも、小説家にとってはこの揺さぶりこそが書くことで得られる最大の収穫であると云える。乱暴に云えば、論文と小説の最も大きな違いは、書く前と書いた後とで論文は書き手を変えないが、小説は書き手を変える、と云うことにあるのかも知れない。「書く前はぼんやりしていたことが書いた後でははっきりした」と云うのが論文執筆の経験だとしたら、「書く前に確かだと思えたことが、書いた後では分からなくなった」と云うのが小説執筆の経験である。
学生時代に、論文を書いた人は多いだろうが、小説を書いた人は少ない。それ故に小説執筆は論文執筆の類推で考えられることが多いが、これはありがちな誤解である。小説の文章は、日ごろ私たちが書く文章の延長ではない。それは書く者に「書きながら考える」に耐えるだけの不屈の精神力と強靭な体力を強いる。
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