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ん~~~...。どうも違和感を感じてしょうがない。
理研の記者会見を見た感想として、STAP細胞の論文騒動は、未熟な科学者のせいで理研には責任ありません、としか聞こえなかった。しかも、ノーベル賞学者さえも同じ立場をとるとは...。 (ただ、しょせんはニュースで見ただけなので、会見の一部しか見れてないことから、私の考えは側面的かもしれませんのであしからず) 未熟な科学者の論文であれば、その内容が未熟かどうか、専門分野が異なってもその表現や構成などからわかるはず。それなのに理研のチェック体制には問題があったとは言えない、とよく言えたもんやなと。 それとお年寄りがよく言われる「時代が違う」。それは具体的になんや?と...。 お年寄りたちが前提としていた科学や情報と比べると、今の若者たちが触れられるそれらは格段に上がっている。それを構築してきたのはお年寄りの方たちなので、それについては敬意を払わなければならないが、だからと言って、自分たちの時代の方が優れている、あるいは上にいる、というような発言の仕方は違和感を感じずにはいられない。 すでに実績という鎧に、権力という剣を身に着けた人たちが、これからの時代を担う研究者たちを委縮させるような行為は絶対に許されない。 仮に間違っていても撤回すればいい、その責任は組織がとる、という形をとらないと、難しいことに挑戦する人はどんどん減っていく。何のために組織として研究しているのか?その辺をよく考えてほしい。お年寄りに高い給料を与える場所では決してない。 それと、某番組にでていたどこぞの大学の准教授の発言にも違和感を覚えざるを得ない。“不正”という言葉を連発していたが、「論文が正しくない」という意味で使っていたようには聞こえなかった。たぶんそう感じたのは私だけではないはず。TVでの発言も論文と同じように世間に影響を与えるものであり、もし、STAP細胞がねつ造でなければ、そのお方はちゃんと公共の場で論文の著作者たちに謝りを入れてもらわないとね。TVでの発言にはそれぐらいの責任を伴うことをお忘れなきよう。 STAP細胞は本当にあるのか?みつかっていない場合はそれがただの誤認だったのか?それともねつ造だったのか?これが本質的な問題であって、論文の共著者からは、その点についての見解を示してもらいたい(「実験して確かめたので、ある、と信じている」とか「ひょっとしたら間違ってたところがあるかもしれないので、もう一回確認して報告する」とか(お一方はこのような感じで発言されていたかと))。 ただ論文の著者たちにも、論文のずさんさによって、関係者やその発展に期待を寄せた人たちに迷惑と失望を与えた罪はあるので、その点についてはコメントを寄せるべきだと思う。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2014.03.14 23:01:01
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