カテゴリ:西遊記
「…かはっ!」
咳き込むと同時に、開いた傷口から血と体力が流れ出る。 それでも彼女は立ち上がった。悟空に伝えなければならないことがある。 ──天竺からの修行僧(殺戮者)の言う事が本当ならば! ということで、展開への突っ込みに行きましょう! ネタや一つ一つの台詞、道具の使い方などの“断片的なもの”は確かにいいんですよね。 ただ、それらを組み立てる時点で失敗したり、あるいは相殺しあっているんですよ。 回想シーンや『悟空リンチ』、台詞の繰り返しなど、いつも以上にさっくり切り落とせる部分が多い(多分、これは30分延長の時間合わせで生まれた分もあるかな)んですから、その分の時間を補完として回して欲しかったです。 『新人賞の獲り方おしえます』P133には、確かにこう記述があります。 「マクガフィン(それこそなんでもない、ほんの小さな口実にすぎないが、具体的で視覚的なもの)はあくまで、他の何かを活かすために脇役に徹するものでなくてはならない」 その意味では『凛凛が倒れこんだ理由』や『引き返してきた三蔵一行が、更にぼろぼろである』ことは、『マクガフィン』といえます。 だから深くは描写されていなかったかな。 しかし、こうも繋がります。 「だからなおざりにしていいっていうんじゃないですよ。もちろん、十分にそのことについて考えておく。でもそれを全部はださない」 そして時には、『整合性を考えて、入れ替える』のも必要だとも。 その意味では、「マクガフィン」の使い方があまりにもおざなりなんです。“他の何かを活かすため”という目的を十二分に引き出すこともできず、終わってしまった気がします。 …他の回でも、『マクガフィン』と主題のバランスが逆転していた嫌いがありましたけどね(頭痛)。 また、今回は『会話』『説得』がキーワード。故に、他の回以上に“感情リアル”が求められました。 アクションとか、コメディが中心ならば、多少の“破綻”に目は瞑れるんですけどね。 そんな回に鍵って、致命的な『心情的な破綻』が一つあったんです。 それに、四人で高僧に詰め寄るシーンでも、「台詞の選択」がまずかった気がします。ほかに叫ぶべき内容があったはずでしょうに…。 そういった細かい破綻の積み重ねが、登場人物への感情移入を妨げていました。 ★1.回想シーンの過多&三蔵説得 総集編的な意味合いの強い第八話と、特別編(回想シーンあり)の間に、意味も無く長々とした回想シーンを挟まないで下さいよ(頭痛)。 少し譲って回想シーンを入れるにしても、選んだ台詞が全て“悟空の言葉”ということにもドン引きしました(寒)。 旅をしていたのは、悟空だけじゃないんです。悟空も、八戒も、悟浄も、三蔵も同等です! 下手な悟空贔屓は、逆に悟空への不快感を呼び起こします。悟空に思い入れがあるからこそ、私は逆に脚本家に憤りました。 例えば八戒の言葉なら『頑張れ、僕。僕も頑張るから』(第八話) 悟浄なら『あなたに仕えていた時には、一度として感じた事の無い想いです』(第九話) 三蔵なら『母は私の心の中にいます』(第参話) などを選んで欲しかったですね。 また、『三蔵説得』シーンで(展開の都合があるとはいえ)悟空単独で説得させたのはかなりマイナスです。 『悟空の言葉』だけ、『悟空と三蔵の絆』だけを強調するのも、前述と同じ理由で引きました。 途中からでもいいので、悟浄と八戒を合流させ、彼らの想いと言葉を加えて欲しかったです。 それが『四人の絆』を強調することになり、さらにクライマックスの描写も盛り上がったかと想います。 「ついでに天竺とやらを眺めてやるか」 前の記事の繰り返しになりますが、この一言は止めて欲しかった。大切な人の命が掛かっているときに、そんなことをする余裕は普通、無い(キッパリ)。 これが最終回で一番大きな“感情描写の破綻”です。 この直後に『説得シーン』が待っていただけに、止めて欲しかった…。 ★3.凛凛の情報源 彼女の登場は非常に大切なシーンです。しかし、あまりに唐突過ぎるんですよ。 『これまで一行がまったく知ることができなかった(そして、天竺側も隠蔽していたであろう)秘密を、どうして知ることができたのか』 『第十話ラストの段階まで、何故知ることができなかったのか』 この二つが漠然としているため、疑問に対するもやもやが後まで尾を曳く事になります。 だから一分程度の映像を挿入するだけでいいので、描写が欲しかったです。例えば… A.“傷の療養中、国の蔵書を紐解き、妖怪が入る方法を探している。 しかし、その蔵書の一つには『かつて経典を求めた人間の末路』が記されていた…” B.“退屈だったので、乳祭りを口実に老子を呼び出す。 しかし老子の様子が変だったので問い詰めると…” C.“姫が帰ってきたことを快く思わない臣下。 『彼女が飛び出さずにいられないであろう』取って置きのネタとして、彼女に囁く” D.“国に入り込み、『修行』と称して妖怪を大量虐殺する武闘僧(モンク)が捉えられる。 その裁きの時に、姫は好奇心で立ち会う。 そして好奇心で尋ねた質問への答えは、彼女を震撼させるものだった…” いろんなパターンが考えられるんですよね。CとDは時間を取る(そして物語の主軸がずれる危険性がある)ので、まず無理としても。 AかBか、どちらかはそれとなく描写できたと思うんですよ…。 ★4.山門を破ってくれ これも前の記事の繰り返しになっちゃいますね。「大雷音寺を庶民へ開け」という意味を込めた釈迦の言葉です。 こういった『さり気ない言葉に真意を込める』描写はすごく好きです。 でもその『さり気なさ』と『大雷音寺の外道さの強調』がバランスが取れていないんですよ。 それまで圧倒的なフラストレーションを一行と視聴者に与えてきた相手です。これまでの妖怪との戦い以上に、『カタルシス』が求められた回なんです。 “悟空に感化された三蔵が、啖呵を切る”だけでは、正直足りません(多少は発散されても、その後にまた、フラストレーションが溜まるシーンが来る)。 肉体的に傷つけるのではなく、むしろ精神的に立ち直れなくなるまで衝撃を与えるシーンが観たかった。 それこそ、“釈迦に法力を全て巻き上げられ、無力化する”ぐらいのシーンが必要だったと思われます。 ★5.お師匠さんは頑張った! その前の番組『頑張った大賞』での 「きつかったんです! でも撮影をがんばりました」 の連呼と重なる悟空たちの啖呵です。 …強烈な“相殺効果”が発現していましたね…(遠い目)。 これ、『撮影頑張ったんだから、報われて当たり前だろう!』というスタッフの叫び声に聞こえるんですよね。 あまりにメタ・フィクション的な台詞に頭痛を感じましたよ。 「商用の作品を頑張って作るのは当たり前だろ。勝負は完成度なんだから、そんなことを力説するな」 という各界のフィクション創作者達からのツッコミが聞こえてきそうで、やはり引きました。 また、それまで“感情リアル”かつシリアスで押していたんですよね。ところがいきなり『メタ・フィクション』的要素を挿入され、彼らの感情が見えなくなりました。 これもすごく大きな“感情リアル”の破綻です。 それ以外に、もっと彼ららしい言葉があったと思うんです。 彼らの言葉は『頑張ったんだから、それを認めろよ!』という、一歩間違えれば押し込み強盗の言葉です。 でも、本当なら 「あんた達よりも、ずっと師匠の方が聖職者らしいよ!」 「お師匠さんや悟空をこんなにしやがって! これが聖職者のすることなのか!」 「誰かを犠牲にしなきゃ救えない世界なんて、まっぴらだ!」 という路線で詰め寄るのがすごく自然ですよね。 そういった部分にちゃんと気を払って欲しかったですね。 その他、“悟空を助けるため、やはり命懸けで戻ってくる三人”の描写を補完するため、一瞬でも映像の挿入が欲しかったですね。 彼らが駆け込んだ後の一瞬に、“廊下に倒れている僧侶”を映すと良かったでしょうか。 三匹が潜入する時点で、見張りの僧侶を倒した後なんですよね(倒れている僧侶が映っている)。 だから別に不自然ではないはずです。 構成的な部分で、破綻してしまった感の強い最終回。 だけどやりたい事や、ネタそのものは良かったです。 もうちょっと“プロットを練る時間”があれば、絶対面白くなっていたと思うだけに残念です。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2006/03/25 09:37:07 PM
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