カテゴリ:その他、芝居(ドラマ・映画・舞台)
母に守られた命がある。
母にすがり付かれた命がある。 母に忌まわしがられた命がある。 今回は『母と子、子同士の絆』が主軸でしたね。 大竹親子と、都古親子がシンメトリーのようで、両方を際立たせていました。 そして、今回は<ありがとう>の歌詞を彷彿とさせるシーンの連続でした。 歌詞カードを持ってる方は是非、それを見ながら歌を全部聴いてみてください。 物語における『台詞』はTPOを選ぶ。そう久美沙織さんは『新人賞の取り方教えます』(徳間書房)でおっしゃってました。 その意味では、 「ありがとう」 のたった一言に全てが集約されていたのですね。 テルの涙。 テルは純粋すぎるが故に、心を許した人間の感情に共感しすぎてしまうのかもしれません。 テルの涙も、都古が見せた感情に共感し、それがぶり返してしまったが故に込み上げたのだと思います。 >「たまに…変なときに突然泣くことがあるんです」 それは、“テルはずっと昔から、都古の悲しみに共感し続けてきた”ことを指しています。 『共感』とは『受容』と同じく、カウンセリングの技術。 テルは都古にとって、最高のカウンセラーでもあったのでしょう。 りな。 ずっと、ずっと母のカウンセラーであったりな。 でも他人の苦しみや言葉や考えを受け止め続けるだけで、彼女自身の言葉も中身も吐き出すことができなかったのですね。 吐き出す先を失った『思い』が、きっかけを失い、形を変えて、『無目的な衝動』になって溢れてしまった。 それを止めるには、『本当の理由』を何らかの形で昇華するしかないのに。 結局、その『思い』に気づいたのは、兄であり、堀田先生でした。 兄は自分の中の同じ『思い』故に。堀田は、専門業だからこそ。 りなは、『衝動』を一人で乗り越えることはできませんでした。 なぜなら、一人で自分の心にもぐるのは、とても辛く、怖く、体力を消耗することだからです。 だからこそ堀田のカウンセリングが必要だったんです。 正規のカウンセリングに基づき、二人でりなの心を探り、痛みを分かち合い、『思い』の正体に言葉という形を与え、そして向き合い方を模索する。 主導権も、答えを導き出すのも、あくまでりな自身。 『思い』と改めて向き合う『苦しさ』に泣きながらも、そうすることで『苦しさ』を昇華する。 そうすることで、母への反発を少しずつ緩和していったのですね。 以前、このドラマの感想で 『本当は、身内こそが最良のカウンセラーになるべき。しかし、身内がカウンセリングをしてくれない現代は、不幸だ』 と述べました。 りなもまた身内ではなく、専門職に頼らざるを得なかったのですね。 それは哀しいことだと思いました。 秀治。 兄はきっと真樹よりもずっと、“テルを施設に預け”たがっていたのかもしれません。 ずっとずっとテルのことを負い目に思い、大人にすら責められ、しかしそのことを母親には言えなかった秀治。 妹よりも年が近い分、テルのことをいろいろと言われ続けてきたのでしょう。 河原と違う理由で、兄もまた世間の目を気にせざるを得なかったのですね。 そして兄がどんなに苦しんでいても、負い目を感じていても。 これまでテルは、それを理解したそぶりを見せなかった……完全に理解することも、そぶりをすることも、できなかったのでしょう。 テルへの好意に、兄は疲れ、空しさすら感じていたのかもしれません。しかしそれを、無理矢理に理性で封じていたのでしょうね。 そのことが降り積もり、兄もまた鬱屈したものを抱え込んでしまったのですね。 その鬱屈の矛先が、『テルを施設に預ける』という約束に向かったのではないでしょうか。 『競争の意味が分かっていない』 その言葉もまた、兄にとってはトラウマの一つだったのでしょうね。 だからこそ、『出たい』というテルの言葉は、兄の地雷を踏み、兄を激情させたのでしょう。 だけど。 確かに第三話で母は言っていました。 「分かっているようで、分かっていなかったり。分かっていないようで、分かっていたり」
「お兄ちゃんが手を引いてくれた」 「ありがとう」 兄から与えられた行為の、その一つ一つの意味をちゃんとテルは分かっていました。 その一つ一つを、感謝とともに記憶していました。 それを理解した瞬間、秀治の中で、『テルとの過去』が意味を変えたのです。 負い目であったはずの過去が、記憶が、写真のネガのように、その意味を反転させたのです。 まるで、奇跡のような一瞬。 兄がこっそりと忌み嫌っていたであろう『競争』の記憶も、弟との大切な絆になり。 秀治の中の『忘れ去るべき過去』という心のゴミ箱から、『支えてあげるべき事柄』という心机の上へと拾い上げられたのでしょう。 その時点で『テルを施設に預ける』という決断も、その理由の大部分を失ったと、私は感じました。 里江。 人間一人の人生を抱え込むなんて、あまりに重過ぎることです。 その重さに、きっと里江は耐え切れなかったんでしょうね。 だからこそ、弟や妹の気持ちにも気づけずに、無意識に甘えてしまったのだと思います。 でも、今は状況が違います。 少しだけだけど、テルは自立してます。 そんな状況だからこそ、他の二人の子供達にも視線を向けてあげるべきなのでしょう。 二人と絆を結びなおすことで、里江ももっと歩き出せるようになるでしょうから。 都古。 以前、第七話で『親から愛されること』の大切さを語りました。 そして、もしも愛されなかったときの例が、都古なんです。 …一歩間違えたら、『僕と彼女と彼女の生きる道』の小柳凛も、同じように育っていたかもしれませんね。 彼女は一年間、『河原の妻』として生きてきました。 その中に都古という『個人の人格』はありませんでした。それを彼女に確信させたのは、『河原の嘘を知った一件』でした。 確信は孤独を際立たせ、たまらなくなった都古は『個人の人格』を曝け出して泣き出します。 それはテルという『都古という人格』に気づいてくれた相手がいたからです。 でも、テルからはやんわりと言います。 都古自身の、『結婚という約束』という言葉を。 自分の言葉に逆襲され、テルからも一種の拒絶を感じてしまった都古。きっとそれは、『都古という人格』にとっての最後の 眠れなくなったのは、その日からでしょうか。 そして、外の形だけを装っている間に、『都古という人格』である中身は器を失い、ジャガイモのように零れてしまったのですね。 一度零れた中身は、とうとう外側を捨てて、どこまでも当てもなく転がっていってしまいました。 『存在意義』を失った彼女は、どこにいても自分を見出せず、へこみ続ける一方でした。 友人からの『うちに来る?』という申し出も、受け止めることはできませんでした。 …友人の好意を受け止めるべき『都古という人格』が、はっきりとしなくなっていなかったからです。 都古が母親に電話をこれまで掛けなかった理由は、“嫌いだから”とは、ちょっと違うでしょう。 “再び『自分の存在への拒絶』を受ける恐怖”から、ではないでしょうか。 だけど彷徨うこともできず、河原との新居にすら入れなくなった都古は、最後に母に縋ります。 居場所を求め、賭けのように母親に連絡するのです。 賭けは裏切られました。 母もまた、『河原の妻』という形を求めたのです。 『都古という人格』は、母親から再び拒絶されました。 とうとう、都古は存在意義を求め、自分の人生を遡り始めます。 その途中の『動物園』で、テルに出会うんです。 テルは都古に驚きつつも、何も責めず、何も問わずに、“そこにいることを許しました”。 『いてもいい』。それは『存在意義の肯定』。 あるがままに、『都古という人格』を肯定するテル。 その傍こそ、都古の居場所になったんです。 本当は、親が与えるべき『存在意義』。それを都古はテルから受け取っていたのです。 彼女にとっての、『本当の家族』とも言える存在だったのですね。 …それに気づいたら、都古はもう大丈夫。 家族はいつか、新しい家族を作る為にバラバラになってしまうけれど。 それまでに培った『存在意義』さえしっかりと抱きとめていたなら、自分の道を歩き出せるはずです。 きっと、『うち来る?』の言葉にも、甘えられる気持ちになってるでしょうか。 この作品、『僕道』シリーズの最終であると同時に、『草なぎ君のお仕事の総集編』にもなりつつありますね(苦笑)。 例えば自転車だったり(走ってる最中におでこが出ると、昔の自転車大疾走シーンを彷彿とさせる。例『TEAM』第三話、映画『メッセンジャー』など)。 例えば動物解説だったり(昔、NHKの『世界ふしぎ大自然』のナレーションを担当していた)。 特に、“最後の滑らか過ぎる読み上げ”シーンには、思わず吹きました(待て)。 あんなに滑らかに読まれたら、思わず思い出しちゃいますよ。 そして、明日は最終回。 レースの先に、テルは何を見出すのか。 色んなものを噛み締めながら、見たいと思います。 愛し方も、愛され方も違う人々が交わって。 その先に、道が生まれる。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2006/12/15 09:56:46 AM
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