G-SHOCKの夜明け__ -The Old School-Gショック。これを聞いて思い出すものはどんな記憶だろう。 この角型ゴムに覆われた非常識な腕時計の出現は、当初たいして注目されなかった。 むしろ、嘲笑の対象ですらあったようだ。 (予算を抑えるために、ステンレスの替わりにゴムにしやがった・・。所詮は計算機メーカーなのさ。) 真っ黒けのゴム時計なんて、少なくともカッコいいアイテムではなかった。 ここらあたりは記憶に無い。僕が高校生の頃(82年まで)につけていたカシオのデジタル時計は 現在の角型Gと同じくらいの大きさでベゼルは伝統的なポリッシュステンレスに覆われた物だったから・・。 今はあまりにもメジャーになった実用的でファッショナブルな腕時計― G-SHOCK ―について僕なりに少し調べてみた。 その初期の歴史に絞って。 調べた題材は、ネットと雑誌である。 世の中にG-shockが産声を上げたのは、1983年の4月のことである。 ただしプロジェクトが立ち上げられたのはもう少しさかのぼって、1981年のことである。 プロジェクトの目指した目標は「オールマイティ・タフ」(英語としては変かもしれないが、この際無視) と称された。 すなわち、<寿命10年、防水10気圧、耐衝撃高度10メートル>の『トリプル10』構想である。 2年後、プロジェクトチームはこの開発についに成功することとなるが、それまでの道程は険しかったようだ。 彼らは、東京は羽村市にあるカシオの研究所にこもり、日夜開発を続けた。 その研究所の建物の高さがちょうど10メートルだったため、おあつらえ向きとばかりに、 その天辺から試作品を作っては落とし、無残に壊れた本体と欠片を拾い集めては「壊れ方」を解析する、 という作業を延々と続けた。 (今度こそ・・) と思いながら、おそらく実験を繰り返したしたことだろう。 そのたびに試作品は無残にぶっ壊れた。 どう改良しても、10メートルの高さからの落下に耐えられるものは作れないようにも思えた。 が、彼らはあきらめなかった。 さらに分析し、改良を重ね、プロトタイプを完成させるまでに壊した試作品は200を越えたという。 開発とは成功に終わってみれば費やした期間は短く感じるが、それがいつ終わるのかわからなければ、開発中は長く不安に感じるものだ。 カシオも企業である以上、無尽蔵に開発費を注ぎ込めるわけではない。 同時に時間的制約もある。時間切れになれば開発は打ち切りだ。 ともあれプロジェクトチームはプレッシャーをはねのけて、プロトタイプを完成させた。 そして意気揚々とデザインを決め、ネーミングを決め、量産タイプ製造に着手した。 ところが彼らに悪夢が襲う。・・・その製造された量産タイプが、落下の衝撃に耐えられず壊れたのである。 原因は外を覆うウレタン樹脂が硬すぎることにあったらしい。 (なんとかしなければ・・。時間がない。) すぐさま改良が加えられ、再び落下実験をした。 今度は壊れなかった。 完成した。 ネーミングは「Gショック」(Gは Gravity=重力 の頭文字) 型番は「DW-5000C-1A」と付けられた。(DWは Digital Water resistantの頭文字) *「DW」はDouble Water Resistant(2×10気圧だから)という説とDivers Water Resistantの頭文字という説がありますが、型番に「AW」を冠してあるものはAnalog Water・・の略であることを鑑みると、DW=Digital Waterと考えた方が自然である、と判断しまして、当説を採用しました。* 記念すべき初代Gショック「DW-5000C-1A」。 Gショックの歴史の幕開けである。 基本的なスペックは現在のGと大きくは変わらない。 100分の1秒ストップウォッチ、20気圧防水、アラーム機能、60分タイマー・・。 主なものは揃っている。防水機能を除けば、デジタルのカシオならお得意の分野だろう。 ちょっと面白いのは、カレンダーが閏年に対応していないところである。今のデジタル時計に閏年未対応などという機種はない。 またライトは豆電球を使用しており、これは消費電力が多かった。 ちなみに、Gショックに初めてELバックライトが搭載されるのは、 これより11年後、94年6月のことである。(EL初搭載機種は「DW-6600B-1A」。) 写真左下に<WATER RESISTANT 200M>の青文字が見られる。 当時は200M防水と20気圧防水の区別がなかったので、 国内正規品でも「200M防水」の表示が認められていた。 ここらあたりも時代をホウフツとさせる。 2つの防水表示の違いを区別するようになるのは、初代Gより4年後に発売されることとなる「真性スピードモデル」からである。 続いて2代目Gショックは初代登場から約半年後、同年11月に発売された。 型番は「WW-5100C-1」。 この型番の「WW」はWINTER WATER RESISTANTの省略形だが、型番に「WW」が冠されているのは 20年を超える歴代Gのなかでも実に2機種しかない。 機能的に初代と違うところは、「耐低温仕様」という点のみである。 マイナス30度まで耐えられる仕様になっている。 とにかく、丈夫さを追い続けたのがGの歴史といえる。 またデザインは初代のものよりかなり都会的な印象を与えるが、その後数年に渡りこのデザインを継承したものが 見当たらないところを見ると評判は良くなかったのかもしれない。 この2代目よりも、むしろ次の3代目の方が初代を継ぐモデルだと言える。 機能は初代と全く同じで、デザインを変えたが、2代目よりは初代に近い。 この3代目は、機能よりも、デザインよりもGショックを地球上に普及させるのに重要な役目を果たしたことがある。 それはアメリカにおけるテレビCMである。 そのCMの内容は次のようなもの。 『アイスホッケーの選手がパックの替わりに、Gショックを氷上に滑らせ、それを思い切りスティックで打つ。 打たれたパック代わりのGショックはゴールキーパーにキャッチされる。そっと開かれたキーパーのグラブの中には 何事もなったように時を刻んでいるGショックがあった・・・』という内容だったそうだ。 ところが、これは誇大広告ではないか!?という疑いをかけたあるニュース番組がCMと同じ実験を番組内で敢行した。 結果、やはりGショックは壊れなかった。 この実験のおかげで、以降アメリカでGショックが爆発的に売れる結果となった。 皮肉なことに、CM自体よりも宣伝効果があったわけである。 いわば、Gショックの<ビッグバン>といったところか。 そのGこそがこの3代目のモデル「DW-5200C-1」なのだ。 3代目が初代の後継モデルとするなら、4代目は2代目モデルの後継といってよい。 耐寒冷地仕様のまま、デザインだけを変えて登場したのは84年の暮れ12月である。 型番は「WW-5300C-1」。 繰り返しになるが、型番に「WW」を冠しているのは2代目とこの4代目のみだ。 5代目、6代目は重要なモデルが続く。 まだまだ黎明期と言えるGショックは、ここで守りに入らず、新境地を開拓して行ったようだ。 その精神が後続モデルの「先祖たち」を生み出したからこそ、Gショックはその種類において裾野を広げ、 購入者の選択肢を魅力的に広げていけた、とは言えないだろうか? 5代目は「まる」である。 何が「まる」か?――それは、形。 ここにきて、後にGショックの主流となる「丸型Gショック」が登場する。 85年5月のことである。 さらにそのわずか2ヵ月後にカシオは、妙なものを発売してきた。 本体両側に2つずつ付いているボタンをプラスチックのカバーで覆ったGショックである。 売り文句は「泥や埃に負けない・・・」であった。 後にMUDMAN(マッドマン)シリーズとなるその原型モデルがここで早くも登場する。 写真を見るとわかるが、フェイスの下部には<G-SHOCK2>のロゴが入っている。('2'はギリシャ数字。表記できないようなので写真でご確認を。) ジーショック2・・・。 結局、’ジーショック2構想’は撤回されるわけだが、メーカー側の試行錯誤の歴史が見て取れて面白い。 これまでのとは大きく違うモデルだ!と言いたかった事だけは伝わってくる。 <G-SHOCK2>のロゴ入りモデルは今頃はさぞかし高値で取引されているであろうことは想像に難くない。 5代目、6代目の型番はそれぞれ、「DW-5400C-1」「DW-5500C-1」である。 6代目が防塵仕様である以外、スペックは3代目、5代目、6代目、とつまらないほど同じである。 だが、どれも重要な機能だ。 相変わらずカレンダーは閏年に対応していない。 カレンダーくらいは早々に改善できそうなものだが・・と思うが、それも今だから言えることなのだろう。 しかし、次の7代目モデルは違っていた。 フルオートカレンダーをついに搭載してきたのである。 それにはついでに、2つの時差のある場所の時刻が確認できる「デュアルタイム機能」も搭載されていた。 7代目の登場は、87年の6月のことだった。 この年月をちょっと覚えておいていただきたい。 型番は「DW-5600C-1V」。 ・・・・そう。 これこそが、かの有名な「スピードモデル」、通称「真性キアヌ・リーブズ」。 この型番の最後には「V」の字が加えられているが、これは海外モデルであることを表している。(覚えておくと便利かも?) ここにきて国内版と海外版に別れた理由は日本の「防水機能表示」の規則がきびしく変更され、 海外物と同じ表記が出来なくなったからだ。 余談になるが、200メートル防水と20気圧防水の違いについてちょっと説明しておくと――― <200M防水>は<20気圧防水>よりも強靭なのである。 「水深200M地点=20気圧」はご存知の通りだが、 200M防水とは水深200M地点において、動いても浸水しないという意味なのである。(そんな超人がいるかどうかは別問題) 動けばさらなる圧力が掛かるのでそのときの水圧は20気圧を超えることになる。 対して、20気圧防水は読んで字の如しである。 たとえプールで(水深50センチ)泳いでいても腕の動きや、水流によって10気圧近い水圧がかかることはあり得る。 要するに現実には水深以上の水圧が掛かるのが普通だ、ということである。 そこで日本では「20気圧しか耐えられないものを、200Mの水深で自由に動けるが如き表示は誇張であり、 各の如き表示は不当表示に当た~る!」となり「20気圧防水」を「200M防水」と表示できなくなった。――― 海外モデル(Gショックに限らない)の表示基準。現在の日本では<~ bar>としか表記できない。 このおかげで「真性キアヌ」は輸入品にしか存在し得なくなった。 なんとも間の悪い話だ。 「V」の付かないモデル、国内モデル「DW-5600C-1」も存在する。 表に書かれている字が少し違う――青字で<WATER 200M RESIST>と書かれているところが 国内版は<WATER 20BAR RESIST>と変わっている―― だけで、残りのデザインや性能はいっしょである。 「国内モデルのほうが信頼できていい」「キアヌなんとかが何を着けてようとどうでもよい」という人のほうが普通だと思うが、 「真性キアヌ」が欲しい人には、デザインが少しでも異なる以上国内モデルでは用をなさないわけだから気の毒な話だ。 もっとも国内モデルだろうが、結局入手が困難になってたことに変わりはなかっただろうが・・・。 さて、その映画「スピード」の公開は94年のことである。 87年から、94年までは7年のブランクがある。 使用された7代目Gショックの製造から実に7年もたった後に公開された映画であることに留意してもらいたい。 そのタイミングで使われたあたり、その7年の間にも、後にスピードモデルと呼ばれる(日本だけだが)7代目Gショックが アメリカに浸透していたことをよく裏付けている。もし忘れられたモデルなら7年も経った後で使われはしなかっただろう。 腕時計の種類など星の数ほどあるのである。 (カシオが売り込んだ?わざわざ古いモデルを?―――それはないと思う。売り込むなら最新モデルでしょう。) 僕の推測に過ぎないが、キアヌ・リーブズか、あるいは監督あたりが、 当時プライベートで気に入っていた時計のひとつだったのでないだろうか? まあ真相は調べ切れなかったわけだが・・。 (追記:その後、雑誌のスキャンと思われる画像を発見。その記事によれば、やはりキアヌ・リーブズが愛用していた物のようです。その画像を掲載しておきます。字が小さいので読みづらいですが・・) 型番に5600とあることから、7代目は後に「5600系」という呼称が付くほどに多くの派生モデルを生み出し今日に至っている。 この現象はこの型がひとつの「完成形」であったことを何よりも示しているし、多くの人に親しまれたことも同時に表している。 さて8代目は、初代丸型モデル(5400C)の継承機種である。 型番は「DW-5700C-1V」。 スペックは5600Cと変わらず、フルオートカレンダー、デュアルタイム機能が搭載されている。 「ケースは5400Cで、中身は5600C」なのがこの8代目<5700C>だと捉えてよい。 ミュージシャンの<スティング>が愛用したことから、5700系は「スティングモデル」とも呼ばれ、 この8代目は特に「真性スティングモデル」とされている。 日本では発売されていないことから、個人間で高値で取引されることが多いらしい。 中身が同じで、形が角型と丸型で対象的だから、5600Cと5700Cは並べて語られるべきだと言える。 発売時期も上記スピードモデルから遅れることわずかひと月、87年7月のことである。 以上。ここまででひと段落。 なぜひと段落か?――それは、Gショックに恐ろしく詳しい人たちが 初代から8代目Gショックまでを『オールド・スクール』と呼んで<ひとくくり>にしているからだ。 メーカーがそう呼んでいるわけではない。コア・ファンが付けた呼び名である。 言われてその後に出てくる製品を眺めてみれば、確かにそのくくり方の正しいことがわかる。 オールドスクールは「古典の一群」とでも訳すべきか? 「母校」「出身校」という意味もあるが、源流になった、という概念で捉えればわかりやすい。 これらオールドスクールは、大げさに言えば、今や<神聖視>されているモデル群である。 あくまで結果論的評価に過ぎないと言われればそうであろうが、これらオールドスクールをベースとして派生モデルがその後続々と誕生し、 20年以上にわたり世代を超え、日本を含めた世界中の人々に実用的な時計として愛用されて続けてきたことを考えれば、 やはりオールドスクールは<基本がしっかりできていた>製品だったと判断できる。 こうして8つのモデルを眺めるとき、僕などは、映画『フィールド・オブ・ドリームズ』のメジャーリーガー達を見ている気分になる。 最後に、主題からは逸れるが、その後に出てきた製品にも簡単に触れておこうと思う。 まず、スピードモデル、スティングモデルが出た87年の暮れ12月にはスピードモデルのほうの「プロテクター付き」タイプが発売されている。 これがプロテクター付きGショックの初代ということになる。 フェイスは5600Cより若干変化している。全体としては5600Cのマイナーチェンジモデルといったところ。 また、年が明けて88年の3月には「ジュニアG」と呼ばれた小型のGショックが発売されている。 これは、後年発売される女性向けGショック、<BABY-G>シリーズの原型となったということで意味のあるモデルだ。 右上、ライトボタンがないことにご注目。 ちなみにBABY-Gの初代モデルが誕生するのは94年12月のことであるが、 その初代BABY-Gのフェイス下部には<Baby-G>のおなじみのロゴはまだ無く、 <G-SHOCK>と書かれてあるのでプレミアが多く付くのだとか・・。 さらに、89年、元号が昭和から平成に代わったこの年には、初めてGショックにアナログを載せた デジ・アナ一体型モデル「AW-500-1E」が、 また、90年には初めて<液晶グラフィック>(=三ツ目の部分)を載せたモデル「DW-5900C-1V」が発売される、 など順調に進化を遂げていった。 これらの進化を資金的に支えていたのは、アメリカをはじめとする海外市場であり、日本市場ではなかったことも、 はっきりと言っておかなければならないだろう。 「日本でも、そこそこは売れていたのでは?」という人もいるかも知れないが、それは先入観、もしくわ記憶違いだ。 初代G出現の83年から90年までの日本において、Gショックはまったくと言っていいほど売れていない。 まさに「見向きもされなかった」という表現がぴったりとはまる。 Gショックが日本において本格的に売れ出すのは、92年に入ってからなのである。 「オールドスクール」を含むGショックの芽を育てたのは、海外市場だったという歴史的事実は覚えておくポイントだろうと思う。 (以下、10月15日加筆) 浮世絵、アニメをはじめ、海外で認められた分野の作品が、後になって国内で評価を受けるというパターンは多い。 Gショックもこれにあてはまるが、ここで心配なのが『欧米でウケたから、それはスゴイ物なのだ』という欧米価値観の盲信が当時においてなかったか?という点である。 知っての通り、日本人は自分達の価値観に自信を持っていない。 だから海外(欧米に限られる)で高い評価を受けると、とたんに「スゴイ!」という反応になるのである。 価値観に自信があれば「それがどうしたの?」という反応になるはずである。 国内で再検討・再評価をするならともかく、中身を見ようともせずに「スゴイ!」となるのであれば、それは他人の価値観の盲信以外のなにものでもない。それは自立してない人間の所業だ。 本来なら国内でまず高い評価を受けて、それが海外でさらに評判を得るのが順序のはずで、Gショックに関してもアメリカが先に評価をしたものだから、そこらあたりが気に掛かるわけである。 92年、93年当時、僕は腕時計なんてまるで関心がなかったし、周りにもGショックを身に着けている人はいなかったと思う。 だから当時の日本人がどういう感覚、どういうノリでGショックを買い始めたのかがわからない。わからないからなんとも言えない。 日本はカシオの’お膝元’である。 その膝元に住む人たちより先に海外の人たちが日本の発明品(あえて発明品と書く)を評価したのは悔しいことではある。 せめて現在のGショック愛好家達の様に、当時の人たちも自分達の価値観で買い始めたのだ、と思いたい。 とにもかくにも、90年に入ると「DW-5900C-1V」という「3つ目」モデルの逆輸入版が日本で売れ始めた。売れた、といってもその後のGショックの怒涛の売れ方に比べれば「ちょびっと」である。 (このモデルの国内正規品-DW-5900C-1-は92年に発売の運びとなる) とはいえ、ようやく<ブレイク>の兆しは出てきたわけだ。 そして、同年の暮れには「DW-6000GJ-1」が発売される。 これは1000分の1秒ストップウォッチやら、ラップスプリットタイムを計れる機能やらを持った、カーレースを意識したモデルだったことから、「F1モデル」のニックネームが付けられた。 このモデルが日本で最初に「売れた」モデルなのである。 その影響で、83年の登場以来ずっと1万台未満だったGショックの国内出荷数が、翌年91年になって初めて1万台を超え、ようやく3万台に達した。 同年の海外出荷数はといえば、67万台であるからいかに少ないかがわかる。 火がつくまで8年以上掛かるとは、今から思えば、やはり鈍い反応だったと言わざるを得ない。 しかし、翌92年になると国内出荷数は一気に15万台に達する。Gにとってはまさに<ブレイク>の年となった。 そしてこの年以降は順調に売り上げを伸ばしていくことになる。 4年後、96年には国内が100万台、海外が150万台の出荷数となった。 さて、余計なことだが、96年になってもまだGショックを一台も持っていない日本人が少なくとも一人いた。 僕である。 僕が初めて買ったGショックは初代「ミスターG」のゴールド液晶タイプだった。翌97年のことである。 ようやくのろまな僕にもGショックのささやかな歴史が始まったわけだ。買ったGの型番は「MRG-1G-1」。レア度は低いらしい。(笑) 僕のミスターG・・恐ろしいことに、製造から10年経った今もまだ動いている。 やはりこの時計―Gショック―は売れるべくして売れたのだ。 (了) (2006年10月15日)(追記:2007年4月22日) |