|
|
|
|
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
よんげるさんのお買い物
静岡県かば焼きムービー [全2027件]前回の日記には18:30頃部屋の片づけが済んだと書いたけど、 まだ日の残っている明るさだったから本当は17:30頃だったかな? 自転車で、商店や交通の現状を確認するために街の様子を見に行く事にした。 自分は、中越や四川の地震を報道で見た頃 「これは他人事じゃなくて絶対にいずれは自分にも起こりうる」と思い (東海地震が“起きる、起きる”と言われ続けている静岡で育ったせいもある。) 水・食料・乾電池など非常時の備えをそれなりにしてあった。 備えといっても、カロリーメイトと缶詰と「六甲のおいしい水」程度だけど。 趣味のバイク旅行で、飯をガスバーナーで炊いた事が何度もあるので、飯の心配はない。 一時期は、車のガソリンもタンクの半分になったら満タンにして「タンクを空けない」ように心がけていたけど、 最近は少々サボッてしまって、3月11日の時点では燃料計の残量が1/4になっていた。 なので、商店はともかくガソリンスタンドがやっているかどうかは気になった。 停電で街灯も信号も灯らない街に漕ぎ出すと、余震を恐れてか開いている商店を探してか、所在無さ毛に歩いている“家族”が多かった。 (何故か、皆 家族単位の数人で歩いていて、一人で歩いている人は全然見かけなかった気がする。) 部屋から一番近いコンビニ・セブンイレブンの様子を見に行ったら、まさかと思ったが営業していた。 “停電でレジスターが動かないのでお釣りは出せません”という条件付だが。 店内はすごい混雑だったが、それでも客は“千円ちょうどになるように”商品の買い合わせを選んだりする余裕はあった。 無くなっていたのは「おにぎり」「インスタント麺」「缶詰」「乾電池」。 飲料はモノさえ選ばなければ、まだ残っていた。 不思議なことに、こんな時こそ重宝されそうなカロリーメイトやソイジョイ等、より非常色の高い食品は売れ残っていた。 地震直後、実家へ無事を伝えようと携帯で一度だけ掛けたが繋がらなかったので コンビニ店頭の公衆電話を使おうと思ったが、この時点で十人程度の列が出来ていたのであきらめた。 部屋から二番目に近いコンビニ・ローソンの様子を見に行ったら、こちらは営業を停止していた。 その後、国道にあるガソリンスタンドの様子を見に行ったら「機材点検中につき営業停止」となっていた。 3軒ほどガソリンスタンドが隣接しているのだが、どこも閉まっていた。 国道の大きな交差点には、停電で動かない信号の代わりに警官が立っていた。 最後に、部屋から一番近いスーパーマーケットと薬局を見に行ったが やはり営業を停止していた。 まだ様子を見に行きたい所はあったが、 暗くなってきて信号も動かない中、自転車で無闇に出歩くのも利口でないと思ったので帰る事にした。 スーパーの駐車場で、やはり“放浪”していた家族の「お父さん」が『困ったことになったぞ、こりゃ…』と言っていたのが印象的だった。 確かに、自分はひとりモンだから備えもできたし、もしこのまま電気もガスも水道も2~3日動かなかったとしても「どうにかなる」けど、 子供のいる一家となると本当に大変だろう。 一度部屋へ帰り、 停電でテレビを見れないので、ちょくちょく車へ行って ナビの映りの悪いテレビでニュースを見たり、 ラジオ(レース観戦のためにたまたま買ってあった。たまたま手元にラジオがあって本当によかった)のニュースを聞いて過ごし ほぼ完全に日の暮れた19:00近く、もう一度最寄のセブンイレブンに行ったら さすがに混乱に対処しきれなくなっちゃったのか、営業を停止していた。(店内にはまだ商品は残っていた。) 公衆電話が空いていたので、ここで実家へ無事を連絡。 この直前から、非常事態につき公衆電話は無料となっていた。(その事はラジオで知った。) コンビニへの行き帰り余震を嫌ってか車の中で過ごす人・家族を多く見かけた。 (家では見れないニュースを、車のナビでなら見れるからってのもあったろう。) その後部屋へ戻り、カロリーメイトを食べた後は、 横になってずっとラジオでニュースを聞いて過ごした。 まだ余震が頻発していたので、非常時に役立ちそうな物と数日分の着替えをDパックに入れて車に移し、 車の鍵・懐中電灯・普段いつもポケットに入っている物など最低限の身の回り品は いつでも持ち出せるように小さいコンビニ袋に入れて、寝る時はその袋を腕に通したまま寝た。 (安心のため。これは2週間くらい続けた。) その後、自分の部屋はワンセグの映りが悪いのだが 窓際の高い位置ならNHKが入る事を発見。深刻な被害の映像を見て唖然とする。 しかし、携帯をかざす不自然な姿勢をいつまでも続ける訳にもいかず (携帯のバッテリーは予備を二つ持っていて、車の中で充電できるしオモチャみたいな太陽充電器もあるので携帯の電源の不安はなかった) 情報源はラジオを点けっ放しにして、寝るともなくときどき余震に揺り起こされながら不安な夜を過ごした。 そうするうちに、確か2時半頃、電気が回復した。 (電力が復旧したら気が付くように、部屋の灯かりのスイッチはONにしたまま寝ていた。)
とりあえず生存報告。 部屋が散らかった程度で、ガス水道は止まらなかったし 電気も夜2時頃に復帰して何の被害もなし。 いま街へ様子を見に行ったらスーパーは買い出し客で一杯だったけど、 自分はこういう事態に備えて食料も用意してあるので問題なし。 ネット回線負荷を鑑みて、以後当分書き込みはしません。
すこし考えた末に、好ましくないが車で帰る事にした。 やはり信号は動いておらず、表通りはかなり混んでいた。ちょっと交差点があると、そこで往来が止まってしまう。 なので、なるべく幹線道路を避けて、通ったこともないような裏道脇道をあてずっぽうに走って、なるべく大きな交差点と信号・踏切を避けて帰った。 これが結果的に上手くいったようで、ふだんは15分の帰路を30分で帰る事ができた。 職場を出る前に、携帯のワンセグで漁港が冠水している映像を見た時には 「現地の人は皆、非難して無事なのでは…」と期待していたが 帰りの車内、写りの悪いカーナビのテレビで 名取市の平野部を津波が遡っていく空撮映像を見て、甚大な人的被害が避けられないと解った。 途中、車内で大きな揺れを感じた時もあったが 道路脇にあるどこかの資材倉庫では、フォークリフトに乗ったおじさんが平然と仕事を続けていて 「帰宅を急ぐ車で道が塞がってるこんな状況でも、業務を切り上げずに働いてるなんてすげえなあ~」と感心した。 反面、住宅地では、余震を恐れてか多くの人が玄関先に出て立ち話をしていた。 (ほとんどが“おかあさんと子供”。) 何箇所か、瓦の落ちた家や倒れたブロック塀をいくつか見かけたが、傾くほど壊れたような建物はひとつも見なかった。 マンションに帰り着いたのが17時。オートバイが二台とも倒れていなかったのでひとまずホッとした。 「でも、部屋の中はどんな事になっているやら。本棚が倒れたりしてたら嫌だなあ」と思っていたが、 “少し散らかった”程度で大した事はなかった。 本棚には、つっぱり棒で固定-まではしてないけど、底面にクサビみたいなゴムを噛ませる「倒れ防止」を施してあったので 多少は効果があったのかも知れない。 被害らしい被害は、パソコンデスクのてっぺんに置いてあったプリンターがおっこちて部品の欠片が散らばってたのと (調度インク切れを起こしていたので、わざわざインク買って動作確認するか・いっそ買い換えるか思案中。) 室内保管していた自転車が倒れた拍子にギアが“飛んだ”みたいで、1速~3速が使えなくなった程度。(まだ直してない。) あとは、台所の食器や調味料が散らばってお皿が割れたり欠けたりした程度で大した被害はなかった。 とりあえずライフラインの確認をしたら、電気は停電。水は出た。 ガス(プロパン)は止まっていたので、ガスメーターのリセットボタンを押したら復帰した。 もし都市ガスが止まったら復旧するまではかなりの時間を要する筈なので、こんな時だけはプロパンが有利だなと思った。 「とりあえず電気がいつになったら復帰するのかわからないので、暗くなる前に部屋を片付けなければ」と思い 18時頃まで掛けて片付け、さらに部屋の中で本棚の上など高い所に置いてあった物を下へ降ろした。 いちばん面倒だったのは、床に散らばった爪楊枝と 落っこちたトースターからあふれたパン屑を拾い集めた事w といえば、どれだけ「大した被害じゃなかったか」がわかってもらえると思う。 調度暗くなった18時半頃にそうじと片付けが済んだので、 道路状況はどうなのか?商店はやっているのか?を確かめに 使えるギヤが半分になった自転車で街の様子を見てくる事にした。 その4・街中編へつづく すこし考えた末に、好ましくないが車で帰る事にした。 やはり信号は動いておらず、表通りはかなり混んでいた。ちょっと交差点があると、そこで往来が止まってしまう。 なので、なるべく幹線道路を避けて、通ったこともないような裏道脇道をあてずっぽうに走って、なるべく大きな交差点と信号・踏切を避けて帰った。 これが結果的に上手くいったようで、ふだんは15分の帰路を30分で帰る事ができた。 職場を出る前に、携帯のワンセグで漁港が冠水している映像を見た時には 「現地の人は皆、非難して無事なのでは…」と期待していたが 帰りの車内、写りの悪いカーナビのテレビで 名取市の平野部を津波が遡っていく空撮映像を見て、甚大な人的被害が避けられないと解った。 途中、車内で大きな揺れを感じた時もあったが 道路脇にあるどこかの資材倉庫では、フォークリフトに乗ったおじさんが平然と仕事を続けていて 「帰宅を急ぐ車で道が塞がってるこんな状況でも、業務を切り上げずに働いてるなんてすげえなあ~」と感心した。 反面、住宅地では、余震を恐れてか多くの人が玄関先に出て立ち話をしていた。 (ほとんどが“おかあさんと子供”。) 何箇所か、瓦の落ちた家や倒れたブロック塀をいくつか見かけたが、傾くほど壊れたような建物はひとつも見なかった。 マンションに帰り着いたのが17時。オートバイが二台とも倒れていなかったのでひとまずホッとした。 「でも、部屋の中はどんな事になっているやら。本棚が倒れたりしてたら嫌だなあ」と思っていたが、 “少し散らかった”程度で大した事はなかった。 本棚には、つっぱり棒で固定-まではしてないけど、底面にクサビみたいなゴムを噛ませる「倒れ防止」を施してあったので 多少は効果があったのかも知れない。 被害らしい被害は、パソコンデスクのてっぺんに置いてあったプリンターがおっこちて部品の欠片が散らばってたのと (調度インク切れを起こしていたので、わざわざインク買って動作確認するか・いっそ買い換えるか思案中。) 室内保管していた自転車が倒れた拍子にギアが“飛んだ”みたいで、1速~3速が使えなくなった程度。(まだ直してない。) あとは、台所の食器や調味料が散らばってお皿が割れたり欠けたりした程度で大した被害はなかった。 とりあえずライフラインの確認をしたら、電気は停電。水は出た。 ガス(プロパン)は止まっていたので、ガスメーターのリセットボタンを押したら復帰した。 もし都市ガスが止まったら復旧するまではかなりの時間を要する筈なので、こんな時だけはプロパンが有利だなと思った。 「とりあえず電気がいつになったら復帰するのかわからないので、暗くなる前に部屋を片付けなければ」と思い 18時頃まで掛けて片付け、さらに部屋の中で本棚の上など高い所に置いてあった物を下へ降ろした。 いちばん面倒だったのは、床に散らばった爪楊枝と 落っこちたトースターからあふれたパン屑を拾い集めた事w といえば、どれだけ「大した被害じゃなかったか」がわかってもらえると思う。 調度暗くなった18時半頃にそうじと片付けが済んだので、 道路状況はどうなのか?商店はやっているのか?を確かめに 使えるギヤが半分になった自転車で街の様子を見てくる事にした。 その4・街中編へつづく 揺れが収まってから、防災訓練の手順にのっとり、ヘルメットを被って屋外へ退避。 駐車場で職場のグループごとに集まって点呼、人数の確認。 員数確認が終わっても、絶えず余震が起きているためしばらくこのまま野外で待機の指示が出た。 市内では、いたる所で消防車・救急車のサイレン音がしていた。 後日の報道で見ると市内で直接の怪我人などは発生しなかったようだが、それでも緊急車両は活発に動いていたようだ。 この頃になって、携帯のワンセグでテレビのニュースを見て 震源地が三陸であること、かつてないような大きな震災となりそうな事がわかってきた。 職場には宮城県出身の人も何人かいて、その人達は解散指示を待たず 同僚に『実家の様子を見に行く』とひと声掛けて帰ってしまった。 (その人は、以後翌週の火曜日まで消息がわからなかった。) 震源が三陸と知って、同僚達と「原発は大丈夫なのか?」などと軽口を言い合ったが (まだこの時は冗談事でそんな事を言える空気だった) 『緊急停止装置が正常に作動し停止』と報じられたので安心していた。 (震災後に読んださる記事で、原子力技術者が『緊急停止したと聞くと、誰もが安心するだろう。 しかし発電所の現場では、その時から修羅場がスタートするのだ。』と述べていた。 我々が知らなかっただけ・想像力が足りなかっただけで、過去のどの地震・どこの原発でもそうだったのだろう。) そうして駐車場で待機していて「寒い、寒い」と はじめて自分も皆もコートもジャンパーも羽織らず手荷物も持たず野外へ出て来た事に気付いた。 普段なら“屋外へ退避→当分室内へは戻れない→だったら上着とバッグ位は持って外へ出よう”と、 それ位の気は利く筈なんだが。 やっぱりあの時、誰も平静ではなかったんだろう。 実際の被害に遭われた方たちとは比べ物にならない些細な事だが “着の身きのままで逃げた”というのはこういうことなんだな、と思った。 寒さをしのぐ為に車に入ってニュースを見たが、自分のカーナビはテレビの映りが悪くて映像はよく見えなかった。 野外退避中、一度“とびきり大きな余震”が起きたが、室内にいる時と違って野外では身体的には揺れの大きさを実感しなかった。 しかし、目の前の建物がわずかとはいえしなり、駐車されている車が一斉に左右へ揺れだしたので 視覚的には揺れの大きさが見てとれた。 結局屋外で1時間ほど待機して、ようやく屋内へ戻る許可が出た。出された指示は 『停電によって業務にならないので解散とする』 (この時点では被害の甚大さがまだ解っておらず、あくまで“仕事ができないから帰る”程度の認識だった) 『一度に全員が帰ろうとすると車が集中して混乱を招くので、先ず女性から16:00で退社、男性は16:30退社とする』 『停電によって信号も機能していないようなので、十分気をつけて帰ること』 -だった。 実際には男性社員も、16:30を待たずに多くの人がさみだれ的に勝手に帰って行った。 屋内に入った時点では、同僚との会話も 「気仙沼で津波警報が10メートルだってよ」 「大事を見て10メートルとか警報出してても、実際に来るのはきっと1メートルとかその程度でしょ?」 くらいのもので“高さ10メートルの津波”という物を全くリアリティを持って受け止めていなかった。 自分は、三陸で過去明治・大正・昭和にかけて何度か地震による大きな津波の被害があった事、 三陸のリアス式海岸が被害を大きくすること、過去には最大海抜30数メートルまで津波が到達した記録がある事を 知識としては知っていたけど、それでも“それがいま現実に起こっている”とか、 その30数メートルの津波が押し寄せる景色や、結果として“どうなるのか”までは その時点ですらまだ想像できてなかった。 が、携帯のワンセグでニュースを見ているとどこかの漁港が水没している映像が流れ 「て事は、あそこに居た筈の人達はどうなっちゃったの?」などと思っていたら “仙台空港の滑走路が水没”というニュースも流れてきて (この時点では、水没といってもまさかあんな威力で根こそぎ流されたとは思わず“冠水”しているイメージを描いていたが) だんだん被害の甚大さがわかって背筋が寒くなってきた。 やがて、16:30になり帰る事にした。 職場からマンションまでの距離は5キロ。徒歩でも1時間掛からない筈。 路上はかなりの渋滞が予想されるので、車を置いて歩いて帰ろうかとも思ったが (何より、その“こんな事態なんだから歩いて帰ればいいものを、無理くり車で帰ろうとして震災渋滞を起こす愚か者のうちの一人”に自分が荷担するのが物凄く嫌だった) 翌日になって道路事情が改善する保証もないとなると車を取りに来れるかどうかもわからない、 そもそも職場の駐車場が閉鎖されてるかもしれないので、 大いに抵抗はあったが車で帰宅する事にした。 その3へ続く。 3月11日。 地震が起きた時は、職場でパソコンを使った設計業務中だった。 「おっ、揺れはじめた」と思ったらどんどん揺れの振幅が大きくなってきてた。 「地震の揺れは1分程度」と聞いているので、時計を見た。14時46分の中頃だったと思う。 机の下に潜る前に「作業中のデータを保存しよう」とファイル名をコチョコチョしている内に、停電になってPCが切れた。 机の下に潜り込むのとPCのモニターが倒れるのが同時だったと思う。 自分は地震の揺れというのは上下にガタガタ揺れるのかと思っていたが、何と言うか“不規則な円運動で揺すられる”ような揺れだった。 (現在続く震度3から4程度の揺れも、同じような“横揺れ”に感じる) 机の下では「揺れが収まるはずの“1分先”」を測るために時計を見ていたが、二分経っても揺れが収まらないので「いつまで続くのか」と思った。 その間、壁のキャビネットがしなるように揺れていた。 一番気になったのは“震源がどこなのか”という事だった。 自分の住む栃木県南には活断層がなく、震源の直下でない事ははっきりしている。 実家の有る静岡ではいつ大地震が起きてもおかしくないといわれているけど 「東海が震源で、北関東がこんなに揺れるはずはないよな。だとしたら、東京が震源なのか?」 と思うと、都内にいる知人の身と、日本“国”の行末が心配になった。 結局、揺れが収まったのは腕時計で見ておよそ3分後だった。 後日の報道によると、この時自分のいた地域の震度は“震度5強”だった。 先に書いた様に、静岡で生まれ育ち、小学校の頃から“いつか東海地震がくるぞ、いつか大震災が来るぞ”と言われて育ったが 未だに東海地震が来ないので、過去最も大きい震度でも「4」までした体験した事がなかった。 (話が脱線するけど、静岡県出身の漫画家「しりあがり寿」氏は、以前あるインタビューで 自身の作風に絶えずほの暗い影がある事を『いつか大地震が来ると言われて育った影響があると思う』と述べておられた。 自分もその心境がわかる。 だって、子供の頃から、家や学校で“いつか必ず大地震が来て、あなたもみんなも死ぬかもしれませんよ”と言い聞かされてきたのだから。)
楽しい楽しい北海道バイク旅行(2008年8月5日から2008年8月17日の日記参照)から帰ってきて一ヶ月経った2008年の9月中頃、掛川にあった前仕事先から「11月一杯で業務終了」との打診を受けた。 とても居心地が良い職場で、同じチームで働いてたメンバーも良い人ばかりで、地上の楽園みたいな職場だったのだが… その“地上の楽園”へ配属されてから その時点で2年と4ヶ月経過していたので 「そろそろ業務終了の話が出てくる時期だな」とも思っていた。 同僚の社員さん達は皆「ずっと居て欲しい」と惜しんでくれたけど、 現場のそういう気持ちと経営者の判断は全く別物だからしょうがない(泣)。 しかし、掛川は実家からも親類親戚からも、距離的に「会おうと思えば会える、会わない理由にもなる」という調度良い距離感で。 また、東京にも名古屋にも、遊びに行こうと思えば行ける距離でもあり。 町並みも雰囲気も良くて住みやすく、山も海もあって非常に気に入っていた。 今まで住んだ街(浜松、蒲郡、掛川)の中で一番気に入っていた。 なので、この9月時点では「次の仕事先も掛川周辺で見つかるといいな~、今のアパートから引っ越さずに済むといいな~」位にしか考えてなかった。 当事は まだ リーマンショックの影響も限定的で“派遣切り”なんて言葉の生まれる前で、 「業務が終了しても、自宅待機でも基本給は貰えるんだから、当分つぎの仕事決まらなくてもいいな~。2~3ヶ月はゴロゴロ休んでいたいな~」 とさえ思っていた。 そうして、9月中頃から、自分の代わりを務める正社員と業務の引継ぎに入った。 「製造現場で単純作業をしていたニンゲンってのは、こんなになんにも出来ない物なのか!」って驚いたけど(^_^; そういう人に対しては、そういう人なりにわかるように、いっしょうけんめい引継ぎした。 2009年のまとめ・その2 2008年11月~12月へつづく。
前日の30日はコミケのために東京日帰りし、結構くたびれた。 そして、新年の初日の出は実家のある浜松で拝みたいと思っていたので 31日の日中は 特になにもせずゴロゴロして過ごし 午後のまだ明るいうちから眠り 夜9時頃に起きて、年越し蕎麦の「緑のたぬき」を食べて 23時頃に栃木を出発した。 そうすれば、最も近い高速料金所である浦和を通り過ぎる頃には日付が1月1日に変わっていて ETCの土日祝日割引が適用されるから。 大晦日深夜は、栃木の街中も・高速道路上も空いていた。 初詣に出かけるのか、家族連れの車もあり、 自分と同じように帰省するのか、一人で車を走らせている人もあり。 「大晦日のこんな時間にあえて車を走らせている人は、どんな用事・どんな理由があるんだろう?」 なんて考えながら車を走らせた。 車の中、カーナビで紅白歌合戦のクライマックスを観…聞いていたら、 仲間ゆきえと森光子がトンチンカンなやりとりをしていた(爆)。 「行く年来る年」は東北自動車道上で観て、新年は時速100キロで走行中に迎えた。 こんな特異な大晦日は初めてだ。 しかし、2009年は… 居心地のよかった前仕事先の業務が終了し、 次の仕事先自体を獲得するのに大苦労を要し、 居心地のよかった掛川からの転居を余儀なくされ、 それ上収入が3割減って、 とても辛く苦しい一年だった。 一日の内、家計簿を見て考え込んでる時間がすごく長かったからな~。 (元々かなり詳細な家計簿をエクセル上で付けていたけど、収入源と同時に未来収入と予想支出を予測して 将来の口座残高を自動的に計算できるようにした。) 2009年の事を総括するのには、先ず2008年の9月まで遡る必要がある。 つづく。
この日はお台場・東京ビッグサイトにて行われる、コミックマーケットの開催日二日目。 以前の日記に書いた通り、コミケへ行こうか行くまいか悩んでいたが。結局、今回も行ってしまった。 もう毎回惰性で行ってるだけで、特に見たい物とか買いたい物とかないんだが。 (毎回楽しみにしていたバイクの同人誌を出してたサークルはもう出展しなくなってしまった) でも「静岡から北関東へ引っ越して、せっかく都内日帰りできるようになったんだから」という事で出掛ける事にした。 ついでの用事もあるし。 しかし。 毎回愛知・静岡から上京して、新宿のカプセルホテルに泊まって都内滞在するのは大きな楽しみだったのよね。 だから、今回もできれば新宿に一泊したかったのだが、 財政事情も厳しい事だし「ここが我慢のしどころ」と思い都内滞在は諦めた。 グリーンプラザ新宿へ最後に泊まったのは去年の12月。あれからどうなってるのかなー? 最近メルマガで“おトクな宿泊プラン、一泊2900円!”とか盛んにキャンペーンを打ってたけど、 さすがのグリーンプラザも経営が苦しいのかなー? ![]() 「北関東へ引っ越して都内が近くなった」と言っても、駅まで2.5キロ歩かないといけないので 都心まで鈍行で90分プラス歩き30分の計2時間。 以前住んでた掛川からだと駅まで歩き15分プラス新幹線で1時間40分の合計約2時間だったから、 料金的には財布に優しくなったけど 時間的には全然「近くなった」という気がしないんだよなー。 (尤も、掛川在住時に上京するときには 新幹線なんて滅多に使わず ケチって頑張って鈍行で4時間掛けて行ってたけどね。) ![]() 駅まで2.5キロの歩きがダルいから (往路はともかく、遊んだ帰りに歩くのがちょーダルい) 自転車が欲しいと常々思っているけど。 駅前の駐車場が上限一日千円だから、大人しく駅まで車で行くのもアリかもなー。 ![]() でも、駅まで歩いて行く途中には「猫出現ポイント」があるので。 車だと、猫なでられないし。 ![]() この日はパンパンに膨らんだ黒猫が居た。 黒猫かわいいなあ。 まずはついでの用事その1.銀行の記帳に、新宿へ行った。 静岡銀行の記帳ができる支店は都内まで行かないとないので。 UFJの通帳も記帳した。UFJの支店も、栃木にはないので。 ![]() ついでに歌舞伎町へ行って来た。コマ劇場は既に閉鎖されていたが、まだ取り壊されてはいない。 ![]() コマ劇場前の映画館も多くが閉鎖され、すっかり寂しくなっていた。 周囲の商店・雑居ビルのテナントもかなり減って見えた。 あの景色の中で結構目立っていたペットショップも無くなっていたな。 なんだか物悲しいなー。 ![]() 歌舞伎街のマクドナルドが閉店したというのはネットニュースで知っていて 「跡地は何になるんだろう」と思っていたらうどん屋へ様変わりしていた。 折角なので、昼食に入ってみた。 地元・栃木にある「丸亀製麺」に似てるけど、この店は麺が太くて、顎が疲れる程噛み応えがきつい。 “コシがある”というよりは“ただ硬い”という感じ。 まだ開店二日目かそこらみたいで、店員は皆不慣れな様子だった。 この立地ではマックの方が確実に集客があるだろうが、 ニュースで騒がれたみたいに“コーヒー百円で夜明かしする人”なんかが居付いちゃったりして問題もあったろうな。 うどん屋、いつまで保つかわからないが、検討を祈る。 ![]() 新宿の後はついでの用事その2.実家へ帰省する土産に焼栗を買いにアメ横へ行った。 まだ大晦日じゃなくて30日だったので、そこそこの混み具合に見えた。 ていうか、栗を売ってる店は交差点から入ってスグ二軒目か三軒目の店なので、 用事だけさっさと済ませて“年末風景”は見ずにアメヤ横丁を離れた。 栗は千円で4袋だった。例年はもう一袋かふた袋多かった気がするけど。気のせいか? 今年の栗は、渋皮が身に張り付いて剥き難い栗が多かった。 ![]() そんなこんなで、ビッグサイトへ着いたのは もう14時頃になってたかなあ? 西館の、車・バイク・ミリタリーと旅行記のスペースを回って 車の本と廃墟の写真集計4冊を買って、使ったのは1500円。 その後、企業スペースへ行ったが。 不況の影響で出展企業が激減したのか、通路幅がめちゃくちゃ広くなってて驚いた。 チラシ配りのコスプレねえちゃん達も、いつもの2/3か半分くらいに減って見えた。 会場内滞在時間は1時間くらいかな? 本当は、この後また新宿へ戻って カプセルホテル・グリーンプラザ新宿に一泊して 翌朝ゆっくり帰りたかったが 先述の通り、節約のために栃木へ直帰した。 グリーンプラザ、泊まりたかったなー。 グリーンプラザの一階にあるペッパーライスを食べたかったなー。 新宿駅にある喫茶店「ベルク」でも食事したかったなー。 次に上京する機会は、知人の出演舞台がある2月上旬か。
冬休み4日目。 この日は部屋の大そうじ…と言いたい所だが、 部屋は普段から結構綺麗にしているので、床を拭いて掃除はおしまい。 車が埃っぽくなっていたので、ガソリンスタンドへ洗車機に掛けに行ったが ![]() 皆「新年へ向けて車を綺麗にしたい」という思いは同じなのか、 順番待ちになっていた。 ![]() 1時間ちょっとで洗車終了。 あー、すっきりした。 「昨日おとついはブログの書き込み、今日は掃除に洗濯・洗車と我ながら頑張った」と思うので、 洗車の後は自分への御褒美に 近所の道の駅に行って「きなこソフトクリーム」を舐めてきた。 ちゃんと、きなこの味がしてうまかった。 |一覧| |
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
Powered By
|