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graycolorの日記
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差別の構造~差別と女性問題について
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差別の構造~差別と女性問題について
映画『カラーパープル』、『母たちの村』の中に、性差別によって生じた黒人女性の虐待、女性のFGMなど女性問題をいきいきと描かれていた。結局はひどい目に合わされた女性たちの勝利となっていたが、女性に対する差別は実際に何も変わっていない。Mrにしても、村の男たちにしても、今までやったことに対してまったく反省せずに、あたりまえと思い込んでいる。なぜそうだったのか。まず差別とは何かを理解する必要があると思う。
差別が悪いことは誰でも知っており、差別しないことがいいことだというはあたりまえのことであるされる。だが実際、差別とはそんなに簡単なことではない。
差別が簡単なことと思われてきた背景には、差別が現実的な利益や不利益の不平等配分と等しく考えられてきたことがあろう。不平等は悪いことである。なぜなら現代社会を見ていない理論だということは明白である。現代社会には現実に利益や不利益の不平等分配は数限りなくある。能力主義にもとづく昇進や賃金格差は津々浦々にいきわたっている。その場合、人々がそれに対して差別だといって批判しないのは、それが正当なものとして社会的に承認されているからである。
だが、相手に不利益を与える不当行為がすべて差別であるわけではない。あからさまな攻撃や虐殺は暴力であったり犯罪であったりするかもしれないが、差別ではない。この場合、差別は先の言明とまったく逆に、その不利益を与える行為が、あたかも正当なものであるかのごとく差別者と被差別者に了解されることを意味する。すなわち、被差別者が差別されているのは、不利益をこうむっているからではなくそのことが該当社会では正当化されないからであり、同時にその正当化されない根拠が、別の論理によってあたかも正当なものであるからの如くに通用してしまうからである。
現代社会における被差別者の位置は、このようにきわめて特殊である。被差別者が特殊なのではなく、被差別者のおかれた位置が特殊なのである。すなわち、被差別者は差別問題にはめられてしまっているのである。
現代社会は平等を価値観念とする。それゆえ、差別は不当である。しかし、現代社会において現実の不平等、すなわち差別的処置は多々ある。それらはさまざまな装置によって正当化されている。例えば、子供はさまざまな権利を否定されているが、それに対して不等であるという批判はあまり聞かれない..

出処::レポートサイトHAPPYCAMPUS!

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