愛国心について
愛国心を、国にあれこれ規定されるのは、正直、ごめんこうむりたい。私は日本の国を愛する気持ちを、誰よりも持っているつもりだが、日本丸の舵取りを任せている政府のやり方に、全て賛成しているわけでは勿論ない。そもそも、愛し方にはいろいろあっていいはずだ。もちろん、「愛しているから」という大義名分の下、他人の人権などを踏みにじるような、過激派的な行為その他が許されるはずもない。ただ、国家や国旗を、愛する気持ちとどう結びつけるのか?は、他人の人権や統治の本質と、本来関係ないはずである。オリンピックで金メダルを獲った荒川選手、そして、その時に見て聞いた君が代、日の丸には、私は心を熱くしたが、これは、自然発生的なものである。逆に、普通にプロ野球の試合などを見に行ったときに、なぜか試合前に時々国歌斉唱などが行われ、「ご起立下さい」などと言われると、抵抗があるのだ。もちろん、抵抗なく、ありがたく君が代を神妙に聞いてらっしゃる多くのファンの雰囲気を壊したくもないので、一応同様に起立し、神妙そうに聞いてはいるんだけどね。ところが、亡くなった偉大な功労者を悼んで黙祷、とか、時々あったりするのには、素直に、黙祷できるんだよね。「ああ、これだけ多くの人に、黙祷を強要するくらい、偉大な功績があった人なんだ」と、まあ言い方は少し変だけど、改めてその偉大な功績に感じ入るというか。。。。。国家に関して言えば、なぜか日本人なのに、アメリカでヤンキースの試合を見た時、試合前の国歌斉唱には、心が震え感動した。俺のあくまでイメージに過ぎないんだけれど、アメリカでは、「自然発生的」な空気を感じるんだよね。一方、日本での試合前の国歌斉唱には、なぜか強制的な空気を感じ、俺のような天邪鬼は、反発してしまう。これは、日本の教育現場において、国家国旗の強制だどうだという問題が起こっていて、素直に、受け容れることができない要因になっているからだと、自己分析している。君が代や日の丸自身には罪はないのに、戦前戦中は、軍に利用され、今は、時の政府に、利用されそうになっている、というきなくさい空気を感じる。政府がごちゃごちゃ言わなければ、自然に歌うかもしれないのに、政府にごちゃごちゃ言われると、「政府歌?」と思っちゃうんだよね。人それぞれ、いろんなところで見聞きする国家、国旗には、いろんな思いをその時々で感じるけれど、少なくとも、国、政府に、「感じ方」を強制されたり、「この感じ方はいい感じ方ですよ」などとは言われたくない。たとえば俺は阪神ファンだけれど、もちろん、勝って試合終了後の六甲颪は、最高だ。でも、檜山ダンスは嫌いだ。金本への「アニキコール」も、なぜか人工的に作られて、自然消滅したよね。藤本や浜中の応援歌は、当初作られたときとは違う形へと変貌を遂げている。これらを並べて感じるのは、俺は、自然発生的な応援は好きだが、人工的なものは嫌いだということ。そして、自然発生的なものは定着し根強く受け継がれるが、人工的なものは結局消えるということ。例えはかなり変だが、「六甲颪は必ず歌え!」と応援団に強要されたら、俺はへそを曲げると思うね。そんな馬鹿はいないけど。ま、こういった例えは、熱烈な阪神ファンにしかわからないから、元に戻るとして、、、、そもそも、愛国心愛国心!と言いたがる人にありがちな傾向として、「自分の思った愛国心以外は、愛国心と認めない」傾向があると思う。たとえば自衛隊で国のために頑張る人は、愛国心豊か、、、、まあこれは理解できるとして、「自衛隊の存在に反対する」人、実は、これだって、その人なりの「国を愛する気持ち」から芽生えている主張、かもしれないのに、そこを解する能力に欠けてるんだよね。「自分が認める形での愛国心しか、愛国心と認めない」という、悲しい想像力の欠如。PS-最近、麻生さんが、得意げに、「靖国に対しA級戦犯の分祀を言うことなど、独立した宗教法人なんだから、できるわけがない」的な主張を繰り広げていて、よっぽどその論理展開に自信を持っているようで、あちこちで繰り返してらっしゃるけれど、「だからこそ、一国を代表する総理大臣が参拝するには、慎重たるべき神社」になってくると思うんだけどねぇ。。政府管轄の神社で、祀られている人もきちんとした国民の同意の下定められているような慰霊施設なら、こんな問題にはなってないよ。