
思春期に観た作品を改めてみるのはいささか恐ろしい部分もあって、先延ばしにしていたけれども、よおし!と一気観、存外楽しめてホッ、である。吉永小百合デヴュー4年目、でありながらこの時既に出演作品40本を超えた映画隆盛期の名作「
泥だらけの純情」('63)、まだ緩んでしまう前の中平康監督作品。
写真の、裸電球、カーテンさえない窓、家具ひとつない6畳ひと間が、ふたりがいる空間のもの淋しさを見よ、というところである。吉永小百合のいつも彼方を遠望するような面持ちさえが時代の想いに通低して、それぞれの<想い>だけが柱の青春期だったのである。
次の年には東京オリンピック、そして所得倍増時代になだれ込んでゆくわけだが、現代のカムフラージュされた格差社会とは明らかに違う明確な貧富の差がくっきりの格差社会の中の、大使令嬢とチンピラやくざの純愛、いささか荒唐無稽でありながら、しっかりその蓋然性を埋め込みながらの遂には心中への道行き、なだらかな説得は殊勲甲であろう。
母親に細川ちか子、やくざの兄貴分に小池朝雄と、そのそれぞれがまた微妙な距離でこの純愛成立に現実感を与える。現代の不況さえものの数ではないほどの貧しき時代にこそ生まれる夢想が育む浜田光夫+吉永小百合コンビの最高作とも言っていいかもしれない。
存外その行く末も見定めながらの現実認識も携えた心中への流れなのである。果たしてこの作品が現代でどうとらえられるか、知りたいものではある。
或いは現代にこのお話をそのまま持ってくるのは、まさしく無理だから、いかような修正と、徹底した換骨奪胎を必要として、それを考えるだけで映画脚本の修練になるかもしれない。事実、さらに8年後、原作は違えど、ふつうの女の子とチンピラやくざの青春彷徨をあくなき生命感でたどったのが「
遊び」('71)の成果である。
青春を極めて行けばおとな社会との断絶は必至で、極めて行く青春は死に至る病であるとも言えて、半死半生の上実人生というおとな社会にウンザリというスタートをするのはまれなことではないだろう。スンナリ行けるのは極めないからこその在りようで、生還したものも、人は傷跡を消失したかのように、その後も生きていく。
時代との軋轢を正面衝突のように味わうのが青春で、その衝突を回避すべく生活の知恵を積んでいくのが俗世に処す人の在り様とも言えるわけである。
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