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これまでの掲載記事 [全331件]
山肌に沿い、幾重にもつらなる堂宇の数々。 これらの建物が、地形の高低差をうまく利用して建てられていて、 渡り廊下や回廊を渡りながら、お堂めぐりをしていると、 ちょっとしたアドベンチャー気分すら、味わえるような感じがしてきます。 先日、訪れたのは、京都の永観堂。 「もみじの永観堂」とも呼ばれるほどに、秋の紅葉が有名なお寺ではありますが、 紅葉の時期でなくても、数々の堂宇を見てまわるだけで、十分楽しめるお寺でもあります。 ここは、元々、人気のお寺なのでしょうね。 訪れたこの日も、かなり多くの人が、参拝に来られていました。 この永観堂で、名高いのが、「みかえり阿弥陀」と呼ばれる 振り向いた姿が像になっているという阿弥陀仏。 この阿弥陀仏については、この寺の中興の祖である永観律師にまつわる ある逸話が、伝えられています。 *----- ある日、永観は、お堂の中で念仏を唱えながら、阿弥陀仏のまわりを歩いていました。 すると、突然、阿弥陀仏が壇をおりて、永観を先導するかのように歩き始めました。 驚きのあまり、歩みをとめ、呆然と立ちつくす永観。 すると、阿弥陀仏は肩越しに振り返って、「永観、おそし」 と、声をかけたといいます。 永観は、感動につつまれ、是非、この御姿を後世に伝えたいと阿弥陀仏に懇願し、 その結果、この姿が像として伝えられるようになりました。 *------ この永観堂には、言い伝えが残るみどころというのが、他にも、いくつかあります。 「永観堂の七不思議」と呼ばれているもので、それらが、諸堂の各所に点在しています。 入館の時に渡されるパンフレットにも、その所在図が示されていて、 それを見つけながら進んでいくというのが、宝探しのようで、 永観堂お堂めぐりの楽しみの一つでもあります。 (永観堂の七不思議) その1)抜け雀 ・欄間に描かれた雀が一羽足りない。一羽が絵から抜け出して飛び立っていったのだそうです。 その2)火除けの阿弥陀 ・応仁の乱の戦火の中、奇跡的に焼け残り、今に伝わっているという阿弥陀仏。 その3)悲田梅 ・永観律師が、貧しい人に施療するために植えたという梅林の梅の木。 現在、残っているのは、この一本だけだとか。 その4)木魚蛙 ・鳴き声が、木魚をたたいているように聞こえるという蛙。 しかし、その姿を見たものは誰もいないといいます。 その5)三錮の松 ・葉が3枚に分かれているという松。 この葉を財布に入れておくと、お金がたまると信じられているのだそうです。 その6)臥龍廊 ・開山堂へと続く回廊。 湾曲した特徴的な形をしていて、まるで龍が臥せているように見えます。 この回廊は、一本の釘も使われていないのだそうです。 その7)岩垣紅葉 ・裏山の急な斜面から生えている紅葉の木。 紅葉が、これほどの急斜面から生えるというのは、珍しいそうです。 そして、七不思議のチェックポイントを終えると、 最後に行きつくのが、この阿弥陀堂。 このお堂の中に、かの「みかえり阿弥陀」が、祀られています。 慈悲深く、柔和なまなざしの阿弥陀様。 「みかえり阿弥陀」の像の前には、見返りの姿の意味を現代風に解釈したとして、 こんなことが書かれていました。 自分より遅れるものを待つ姿勢 自分自身の位置を、かえりみる姿勢 愛や情けをかける姿勢 ・・・ 真正面から、おびただしい人々の心を濃く受け止めても、 なお、正面にまわれない人びとのことを案じて、 横をみかえらずにはいられない、阿弥陀仏のみ心 なるほど・・・。 京都の寺社を訪ねてまわる休日のひととき。 そんな中、永観堂、みかえり阿弥陀を求めてのお堂めぐりは、 色々と、心に栄養を与えてくれるような、そんな気がしました。
最近読んだ本はといえば、城山三郎の小説「男子の本懐」。 とは言っても、これまでに何度か繰り返し読んでいる、 いわば、お気に入りの一冊ともいえる小説であるのですが・・・。 このところは、しばらく読む機会もなく、 もう10数年ぶりになるでしょうか、 久しぶりに読み返してみても、改めて感銘を受ける一冊であります。 この小説の主人公は、大正・昭和にかけて活躍した政治家・浜口雄幸。 昭和4年には、総理大臣に就任し、その風貌から「ライオン宰相」の異名で呼ばれ、 親しまれていた人です。 昭和初期、軍部独裁へと向かっていく、その前夜ともいうべき時代に 軍縮・国際協調を打ち出し、又、「金解禁」という経済政策を敢行した政治家としても 知られています。 その人となりといえば、いかにも愚直で、 「正直」「正義」という言葉を好んでいたというほどの堅物でありますが、 それだけに、懸命に、そして真摯に、国家の舵取りを果たした人でありました。 首相に任命された日の夜、浜口は家族に対してこう告げます。 「途中、何事か起こって中道で斃れるようなことがあっても、 もとより男子として本懐である。 ただし、これは自分だけの覚悟ではなく、 みなもそのつもりで居て欲しい。・・・」 この一節が、この小説のタイトルにもなっているわけですが、 この言葉の通り、浜口は波乱のうちに生涯を閉じることとなります。 以下、浜口雄幸の生涯をたどります。 ***** 浜口雄幸は、明治3年(1870年)高知県長岡郡五台山村に生まれました。 父は、土佐藩の小役人を務めていた水口胤平という人で、 浜口の姓になっているのは、中学生の時に、浜口家へ養子に行ったことによるものです。 少年時代の浜口は、いつも黙々と一人で本を読んでいるといった寡黙な子で、 しかし、その分、勉強はとびきり良く出来る秀才でありました。 やがて、東京帝国大学(今の東京大学)に入学し、卒業後は大蔵省へと進みます。 しかし、入省後の浜口は、どうもパッとしませんでした。 病気になったり、上司と衝突したりということが長く続き、 地方の支局を転々とします。 しかし、そんな浜口が、頭角を現すきっかけとなったのが、 専売局に勤務している時のことでありました。 この時、浜口が担当したのが塩田の整理事業で、 零細の塩田を廃止して、大規模な塩田に統合してしまおうという計画。 ここで、中小の塩田業者からの猛反発を受けながらも、 この事業に根気強く取り組み、結局、9年の歳月をかけ、 この困難な塩田統廃合事業を完成させます。 このことにより、浜口のことを評価する人が増えていき、 やがて、浜口は大蔵次官に就任。大蔵官僚として実績を残していきます。 その後、人に勧められて、結党間もない立憲同志会に入党。 元々、政治の世界に関心が深かった浜口は、高知2区から立候補して当選し、 いよいよ政治家への道を進み始めることになります。 大正13年(1924年)には、加藤高明内閣の大蔵大臣 大正15年(1926年)には、若槻礼次郎内閣の内務大臣など、大臣を歴任。 そうした中で、浜口の所属する立憲同志会に合併、再編があり、立憲民政党が発足。 浜口は、この新党の党首となって、党運営に没頭する時期がしばらく続きます。 しかし、昭和4年(1929年)、政友会の田中義一内閣が総辞職したことに伴い、 浜口は、ついに次期首相に任命されることになりました。 一躍、脚光を浴びることになった浜口。 しかし、当時の社会情勢は、経済が行き詰まりを見せていて、 そうした中で「金解禁」「軍縮問題」など、 その行く手には、大きな難題が待ち構えているのでありました。 新たに発足した浜口内閣。 その主要閣僚は、といえば、 大蔵大臣が井上準之助、外務大臣に幣原喜重郎という布陣で、 これは、浜口内閣の中心課題であった「金解禁」「軍縮問題」を 実現させるため、実力と実績を持った人を抜擢した人事でありました。 まず、浜口内閣が取り組んだのが「金解禁」。 これについては、大蔵大臣となった井上準之助が、強力に推進していきます。 この「金解禁」というのは、通貨制度を金本位制に切り替えて、 金の輸出を認めるようにするということ。 もう少し、この頃の状況を説明すると、 当時、先進国の間では、この金本位制が一般的になっており、 世界の主要国と同じ通貨制度にしておかないと、 国際取引において色々と不便なことも多く、通貨の信頼性も得られません。 日本でも、これまで、金本位制をとる必要性が叫ばれ続けていながらも、 ずっと先送りされてきていたものなのでありました。 金本位制のもとでは、紙幣は兌換紙幣となり、銀行に行って金と交換することができます。 つまり、金の保有高に応じて紙幣が発行されるという仕組みに変えていくということになります。 しかし、この制度に切り替えたその当座は、 一時的に不景気になることが予想されていました。 井上蔵相という人は、日銀総裁を2度にわたり務めている、抜群の財政通で、 強力な実行力を持った人。 こうしたメリット、デメリットを、国民に十分に説明した上で、 この「金解禁」を断行していったのでありました。 そして、浜口内閣の、もうひとつの懸案であったのが「軍縮問題」。 この当時は、国際的にも軍縮を進めていこうとする機運が盛り上がっていて、 特に、海軍については、各国の保有兵力を制限していこうとする国際会議が、 幾度か開催されていました。 昭和5年(1930年)にも、ロンドンで海軍軍縮会議が開催され、 ここで各国の補助艦の保有比率についての交渉が行われました。 日本の保有艦数は、英米に対して6割にするか、7割にするか。 そうした議論の中、日本の全権団は、何とか7割に近い線でこれをまとめ、 浜口は、この最終案を了承。 ロンドン海軍軍縮条約に調印します。 しかし、このことが国会で政争の材料として取り上げられていくことになります。 まず、政府攻撃の口火を切ったのが、政友会の犬養毅。 これは、憲法の定める統帥権に反するもので、 ”統帥権干犯”であるということを言い出したのです。 統帥権とは、明治憲法(大日本帝国憲法)の中の条文での規定。 第11条「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」 第12条「天皇ハ陸海軍ノ編成オヨビ常備兵額ヲ定ム」 陸海軍の兵力を決めるのは天皇であると書かれているではないか。 政府が海軍の兵力数を決めてきたのは憲法違反である・・・。 これに対して、浜口の国会での答弁。 「もちろん天皇が最終的な権限を持っているが、 実際上は責任内閣制度なのだから内閣が軍縮条約を結んでもかまわない。 これが統帥権干犯になるのなら、外交を外務大臣がやるのは外交権干犯なのか?」 浜口は、国会の論戦をなんとか収めます。 この統帥権干犯問題というのも、もとはといえば単なる与野党間の政争の材料だったもの。 しかし、これに軍令部や右翼がのっかる形で政府を攻撃し始めたことにより、 この問題が、今後の日本において大きな禍根を残していくことになります。 そして、また、この軍縮・統帥権干犯問題により浜口は、 海軍や右翼などから恨みを買うことと、なってしまいました。 さらに、もうひとつ、この頃の浜口内閣に痛手を与えたものが世界大恐慌の勃発です。 ニューヨーク・ウォール街での株価大暴落に端を発した、 このアメリカの大不況は、見る間に世界中に波及していきます。 金解禁を行ったばかりの日本にとって、この世界恐慌の発生は、 あまりにも時期が悪く、日本経済にも深刻な打撃を与えていくことになります。 この頃の日本には、どこか、不穏な空気が漂い始めています。 昭和5年(1930年)11月14日。 浜口首相は、天皇臨検のもと岡山で行われる陸軍演習視察へと向かうため、 東京駅を訪ねました。 特急電車の乗車口へと向かって歩いていた浜口。 そこへ一人の男が現れて、至近距離から浜口を狙撃します。 昏倒する浜口。 浜口は、すぐに病院へと搬送されることになりました。 浜口を狙撃したのは右翼団体所属の青年でした。 「浜口は陛下の統帥権を犯したから」というのが、その犯行理由。 しかし、統帥権とは何か、という質問をされると、 答えることができなかったのだといいます。 銃弾が骨盤を砕き、出血多量で重篤な状態。 しかし、浜口は、幸いにも一命をとりとめることができました。 しばらくは、家族に見守られながら、病院での療養生活を送ることになります。 一方、政府では、首相代理として外相の幣原を立てることにしました。 大きな懸案も落ち着いて、当面の緊急課題もないので、 まずは、浜口の健康回復を待ってみようという方針です。 そして、それに歩を合わせるかのように浜口の容体も良好に推移し、 徐々に回復を見せていきます。 やがて、会期を迎え再開される国会。 しかし、ここで野党が持ち出してきたのが、幣原首相代理の資格問題でした。 それは、幣原が民政党員でなく、国会議員でもないため、 そうした人物が首相代理を務める資格があるのか、という追及。 国会は、この問題により紛糾します。 これを病床で聞いた浜口は、近い時期に、首相として復帰することを決意し、 幣原も、3月上旬には浜口が登院する予定である旨を、国会で伝えます。 復帰に向け、リハビリに励む浜口。 しかし、折り悪く、この時期になって浜口の症状は悪化し始めます。 激しい腹痛で、食事も受け付けず、見る間に浜口の体は憔悴していきました。 登院の日が迫ってくる中、それでも国会に出ると言い張る浜口。 家族も医師も、登院することには絶対反対で、 医師は、「今、登院したりすると、命の保証はできません。」 と浜口を説得します。 しかし、これに対して浜口は、 「国会に出るということは、国民に約束したことで、 出ると言って、出ないのでは国民をあざむく。 首相たるものが、嘘をつくというのでは、国民はいったい何を信頼すれば良いのか、 約束通りに登院する。」と、答えたのだといいます。 正装して、国会に姿を見せた浜口。 議員が総立ちとなり、満場の拍手で浜口を迎えます。 復帰のあいさつと、その後の国会答弁。 浜口は、連日、国会への出席を続けます。 しかし、実際には、立っていることも出来ないほどの病状で、 強心剤の注射を打ち続けての登院なのでありました。 この状況は、浜口の体にとって、あまりにも過酷なもの。 結局、再び、入院することを余儀なくされ、 それから、5か月後に、浜口は息を引き取ります。 昭和6年8月、享年 61才。 懸命に、そして律儀に、国家のために命を捧げた生涯でありました。 そして、浜口死後の日本の状況。 浜口が狙撃されたのと同じように、 議会政治を弱体化させていくかのような事件が相次いで起こってきます。 浜口に代わり民政党の中心を担っていた井上準之助は、 右翼構成員の男に射殺されました。(血盟団事件) 次期首相となった政友会の犬養毅も、海軍将校により暗殺されます。(五・一五事件) このようにして、政党の中心人物が、相次いで暗殺されていく中、 日本の議会政治は、実質上、死に絶えていくことになり、 その後、日本の政治は、軍部主導の方向へと、大きく舵を切っていくことになるのです。
町かどに佇む小さな神社。 気付かずに通り過ぎてしまうような小さな神社でも、 意外に色々な歴史を刻んでいたりする場合があります。 京都には、そうした神社も多いのですが、この「五條天神宮」という神社も、 そうした神社の一つです。 四条通と五条通の間くらい、近くに、これといった観光地があるわけでもなく、 何げない町かどの神社という感じではあるのですが、 それでも、この神社は、平安京に遷都された頃から、 ずっと、この地にあったという古社なのだそうです。 往時には、かなり広大な境内を持ち、この周囲一帯が「五條天神宮」であったとのこと。 別名「天使社」とも呼ばれていて、「今昔物語」や「枕草子」にも、 その名が出てくるのだといいます。 この神社の祭神はといえば、少彦名命、大己貴命、天照大神の3神。 少彦名命が薬の神様でもあるということから、医家の祖神として崇められ、 また、少彦名命が不思議な力を持っていたということから、 安倍晴明など陰陽師からの崇敬も集め、相当に栄えていたのだそうです。 この神社には、意外な逸話が伝えられているのですが、 それが、義経(牛若丸)と弁慶が初めて出会った場所というのが、 この神社の境内であったという話。 五條天神宮に参詣していた弁慶が、 笛を吹きながら歩いてくる牛若丸の姿を見つけ、 その腰にある黄金の太刀に魅せられて、どうしてもこれが欲しくなります。 弁慶は、力ずくでその太刀を奪おうとするのですが、 ここから、両者の闘いが始まります・・・。 牛若丸と弁慶の闘いといえば、五条大橋の闘いとして、よく知られていますが、 実は、その時の橋というのは、鴨川に架かる五条大橋ではなくて、 かつて、この神社の近くを流れていた西洞院川に架かっていた橋であったのだということ。 今では、その跡形もなくなっていますが、 この有名な話の舞台というのが、実は、この神社の境内であったのです。 長い間にわたり、広大な社域を誇ってきた「五條天神宮」。 しかし、その境内が小さくなっていってしまった、そのきっかけとなったのが、 安土桃山時代のことでありました。 この時期、天下人として、京都の町に君臨していたのが豊臣秀吉。 この頃、京都の町は、秀吉の手により大改造が進められ、 新しい通りが、東西に南北にと、次々と作られていました。 このことが、今の京都の町の原型を形づくることにもなったわけですが、 しかし、この時の秀吉は、かなり強引に寺や神社の配置転換を行なったようです。 そうした中、「五條天神宮」も、この区画割りの一環として その境内に道を通すようにと、秀吉から命じられることになります。 串刺しのようにして、境内の中を貫通する通り。 秀吉によって境内の中を貫通させられた、この道のことを 京の人は、皮肉を込めて「天使突抜」と呼んだのだといいます。 「五條天神宮」の近くに残る「天使突抜」という町名。 とても変わった町名ではありますが、これも、京都の町の人の秀吉に対する ユーモラスな抵抗だったということなのかも知れません。 「五條天神宮」という神社は、 ガイドブックや観光地図にも載っていない小さな神社ではありますが、 ひっそりと、その存在感を示しているかのように感じられる、そんな神社です。
古典落語の中に「子ほめ」という噺がありますが、 これは、数ある落語のネタの中でも、最も古いものの一つなのだそうです。 *--- 子ほめ ---* 酒好きの男が、タダ酒が飲めると聞きつけて訪ねて来ますが、 それは「タダの酒」ではなく「灘の酒」の聞き間違い。 しかし、そこでご隠居から、人を褒めてタダ酒を飲む方法を教わります。 相手に年齢を尋ねて、年配の人なら、”それはお若く見える”、 年若の人なら、”しっかりして見える”とおだてたら、 酒や肴を奢ってもらえるとのこと。 赤ん坊の場合でも、人相を褒めて、親を喜ばせたらご馳走になれるという話。 これはいいと、さっそく通りに飛び出していきますが、 しかし、これが、なかなかうまくいかず、逆に、ご馳走をさせられそうになったりします。 近所に子供ができたばかりの家があるというので、 そこで赤ん坊を褒めようと、次はそこを訪ねていきます。 しかし、赤ん坊に無理やり挨拶を教えようとしたり、 顔を見ては猿のようだと言ってしまったり・・・。 ようやく、もみじのような手だと初めて褒めたものの、 その手で祝い金をよく取ったものだと言ってしまい、あきれられてしまいます。 教えてもらったとおり、赤ん坊の人相を褒めようとしますが、なかなかうまくいきません。 こうなれば最後の手段と、年を尋ねると 「そんな赤ん坊に年を尋ねるもんがあるかい、今朝生まれたとこや」と言われ、 「今朝とはお若う見える、どうみてもあさってくらいや」 *-----------------* この「子ほめ」の原話を書いたとされているのが、 落語の祖ともいわれている、安楽庵策伝という人。 この人、浄土宗の僧侶なのですが、 笑い話が得意だったようで、興味を持ってもらおうと、 説教にも笑い話を取り入れていたとのこと。 当時から、笑話の天才と評されていたといい、 京都所司代・板倉重宗から依頼され、 「醒睡笑」(せいすいしょう)という笑話集をまとめています。 この中に書かれていたのが、「子ほめ」「たらちね」「唐茄子屋政談」などの笑話。 これらが、元禄期に上方落語の基を築いたとされる 露の五郎兵衛によって取り上げられることとなり、 それ以来、今でも、落語のネタとして演じ続けられています。 少し、安楽庵策伝の生涯を振り返ってみましょう。 生まれは、天文23年(1554年)で、 父は美濃の戦国武将であった金森定近という人。 幼くして美濃国・浄音寺で出家し、11才の時には上洛。 最初は京都の禅林寺(永観堂)に入って浄土教を学びました。 その後、山陽地方に拠点を移して、いくつかの寺を、建立・再建したと伝えられています。 60才の時、京都に戻ってきて誓願寺の法主に就任。 策伝の生涯の中で、この時期の活躍が特に目立っていて、 古田織部、小堀遠州、松永貞徳など様々な文化人や、公卿等ともさかんに交流を広げました。 茶人としても古田織部の門下で、安楽庵流という流派を打ち立てています。 また、いくつかの著作も残しているのですが、 「醒睡笑」を著わしたのも、この頃のことでありました。 策伝の晩年は、塔頭寺院を建立して隠居し、悠々自適の余生を送ったのだといいます。 観光客や若者たちで賑わう、京都一の繁華街・新京極。 誓願寺は、そうした賑やかな通りの中に溶け込むようにして建っています。 このお寺、天智天皇の勅願寺として創建されたという、 とても古い由緒を持つ寺ではあるのですが、 その一方、落語発祥の寺として、芸能関係からの信仰を集めている寺でもあります。 この寺ゆかりの策伝にあやかりたいと、お笑いの成就を祈願する人も多く、 関西地方の若手芸人たちは、この寺で練習会を行っているのだそうです。 明るい面に眼を向け、笑い続けることを人生の妙楽にしていたという安楽庵策伝。 誓願寺で10月に行われる策伝忌法要の時には、毎年、落語が奉納されているのだそうです。
五山の送り火「妙」「法」の山の麓を東西に延びる北山通りは、 緑にあふれていて、自然環境にも恵まれたところです。 最近では、ハイセンスなブティックや飲食店なども軒を並べ、 京都でも有数のおしゃれな町というイメージが、 すっかり定着してきています。 そんな、北山通りの一角、府立植物園の隣にある美術館が「陶板名画の庭」。 先日は、ここを訪ねてみました。 「京都府立陶板名画の庭」 コンクリートの通路が立体的に交差する建物の中、 その壁面に、陶板に描かれた世界の名画が展示されているという、 ちょっと、一風変わったスタイルの美術館です。 陶板画というのも、あまりなじみがないかも知れませんね。 これは、原画を撮影したフィルムから写真を製版し、 それをいくつもの陶板に転写し焼き上げたもの。 これらの陶板を組み合わせていくことにより、様々な名画が再現されています。 変色も腐食もしないので、永く保存することができるというのが、その大きな特長。 「屋外で鑑賞できる世界初の絵画庭園」というのが謳い文句で、 展示されているのは、全部で8作品。 もちろん、原画が素晴らしいということもあって、 とても、楽しめる空間になっています。 それでは、展示されている名画の数々をご紹介していきましょう。 まず、一際、目につく巨大な作品が、 ミケランジェロの「最後の審判」です。 ミケランジェロが、たった1人で6年をかけ描き上げたといわれている大作で、 実物は、バチカン宮殿のシスティナ礼拝堂にあります。 中央のキリストを中心として、天国へ昇っていく人と、地獄へ堕ちていく人々と。 世界の終末と、それに対するキリストの審判の様子を描いたとされる、 ミケランジェロ渾身の力作です。 陶板による複製であるとはいえ、そのスケールは、かなりの迫力があります。 もう一つ、こちらも大作。 レオナルド・ダヴィンチの「最後の晩餐」です。 キリストが捕まる前の日の夜。 12人の弟子たちと食事をとっていたキリストが 「汝らのうちの一人が、われを売らん」と、突然、告げたことにより、 弟子たちに広がった、驚愕と動揺の瞬間を描いたもの。 恐怖のあまり後ろに身をひいているのが、キリストを売ったユダで、 画面、左側に描かれています。 印象派の名画も何点かあります。 これは、ルノアールの「テラスにて」という作品。 豊かな色彩で知られるルノアールですが、 お母さんと、そばに寄り添う少女の表情が、何とも微笑ましいですね。 こちらは、「ラ・グランド・ジャット島の日曜日の午後」という作品。 新印象派とも呼ばれたフランスの画家・スーラの代表作で、 これにより、点描による絵画を確立したともいわれています。 この作品を見ていると、どこか19世紀のヨーロッパを感じさせる、 そんな雰囲気があります。 印象派の巨匠・モネの睡蓮です。 晩年は睡蓮を描くことに没頭したという、まさに彼のライフワークともいえる作品群。 絵画人生を睡蓮に賭けた、彼のその情念とは、いかばかりだったのでしょう。 こちらは、ゴッホの「糸杉と星の道」 この作品にも、彼の独創的なタッチがいきています。 「糸杉が僕の頭を占領している。なぜなら、 いまだかつて僕の目に映じるようには、誰もこれを描いていないから」 ゴッホは、この絵について、そうした言葉を残しているのだそうです。 いかにもゴッホらしい、その人となりが伝わってきますね。 他に、東洋の作品が2点あります。 伝・鳥羽僧正作「鳥獣人物戯画」。 京都・高山寺に伝わる絵巻物の傑作ですね。 猿や犬などの動物が擬人化され、とてもユーモラスに描かれています。 台湾の故宮博物院に所蔵されている「清明上河図」。 中国・清朝の頃に描かれたという絵巻物の名作です。 以上が、展示されている8作品。 実際の原画には、もちろん及ばないとはいうものの、 その迫力は、十分に伝わってきます。 この陶板画というのは、 焼物と芸術が複合した、新たな芸術ジャンルであるとも言われているそうで、 一見の価値はあると思います。 もし、機会があれば、一度、見に行かれてはいかがでしょうか。
京都を代表する建物といえば、その一つが東寺の五重塔でしょう。 高さは55m。 木造の塔としては日本一高いのだそうです。 この五重塔は、もともと弘法大師・空海により建立されたものでありましたが、 度々、兵火や火災により焼失し、現在の塔は5代目。 3代将軍・徳川家光により再建されたものであります。 全体のバランスが美しく、よく整っている江戸初期の名建築であるとされていて、 国宝にも指定されています。 最初に、この東寺を創建したのは、桓武天皇。 平安京を造営するにあたり、その正門として羅城門を構えましたが、 その門の東西に、東寺と西寺という2つの官立寺院を置きました。 この2寺をして国家鎮護の祈りを込めようとしたわけですが、 しかし、一方の西寺の方は、早い時期に廃れてしまい、 東寺だけが残る形となりました。 現在、西寺は、遺構として礎石が残されているのみで、 西寺跡公園に、記念碑が建てられています。 一方の、東寺を発展させていったのが、弘法大師・空海。 東寺が建立されてから20年ほど後、 空海は、嵯峨天皇から、この東寺を下賜されることとなります。 空海は、この寺を真言密教の根本道場と位置づけて、整備を進め、 講堂や五重塔などの建物を、次々と建立していきました。 空海は、高野山(金剛峯寺)を自らの修禅の場、 東寺は、それを実践する場であるというように考えていたようです。 一般には「東寺」と呼ばれていますが、「教王護国寺」というのが、その正式名称。 各派・真言宗の総本山であり、また、空海が築き上げてきた密教教学の集大成、 密教美術の一大宝庫でもあります。 平成6年には、世界遺産にも登録されています。 では、東寺の境内、伽藍についてみていきましょう。 東寺の伽藍の中心が、この「金堂」です。 現在の金堂の建物は、江戸初期、豊臣秀頼により再建されたもので国宝。 この中には、本尊の薬師三尊像(重文)が安置されています。 こちらは、「講堂」。 室町中期に再建された和様の建物で、重要文化財に指定されています。 この講堂の中が、まさに圧巻で、一歩中に足を踏み入れると、そこには、 大日如来を中心とした諸仏が立ち並んでいて、 いかにも密教といった世界が広がっています。 21体の仏像が織りなすそのさまは、「立体曼荼羅」と呼ばれ、 どの像も、生き生きとしていて、迫力に満ちています。 全21体のうち、15体が国宝で、6体が重要文化財に指定されているのだそうです。 一方、しっとりとした趣きがある、この建物が「御影堂」(大師堂)です。 檜皮葺の屋根が優美で、寝殿造りの遺風も残っている、 とても落ち着ける雰囲気の建物。 ここは、元々、空海の住房であったところとされていて、 現在の建物は、室町初期に再建されたもの。 国宝に指定されています。 この御影堂というところは、お大師様信仰の中心となっている場所。 ここには、弘法大師像(国宝)が安置されていて、 この像が、多くの人々からの信仰を集めているのだそうです。 毎朝、早朝6時には、このお大師様に朝食を捧げることになっていて、 この時には、大師像を収めた厨子が開扉されるとか。 私が訪れた時間帯では、大師像を見ることは出来ませんでしたが、 それでも、多くの人がお参りに来られていて、 中には、この厨子の前で、声を上げ、般若心経を唱えてられる人もいました。 お大師様にすがり、祈りを捧げる人々。 ここは、そういった強い思いが伝わってくる、そんな場所です。 毎月21日は、弘法大師の月命日。 この日、東寺では様々な屋台が境内に軒を連ね、店を広げます。 この縁日は「弘法さん」と呼ばれ、多くの人から親しまれているもの。 弘法大師を慕う、その強い思いは、ここ京都で、今も息づいているんですね。 壮大な密教美術の数々も、それは、とても素晴らしいものでありますが、 それにもまして、お大師様に寄せる人々の姿こそが、 この東寺の本当の魅力なのではないかと、そんなことを感じました。
世界史上に名だたる、絶世の美女であったと言われているのが楊貴妃。 唐の玄宗皇帝は、この楊貴妃を寵愛すること、ひとかたならず、 楊貴妃の死後には、彼女を偲び、その等身像にかたどった観音菩薩像を彫らせたと云われています。 この「楊貴妃観音」と伝えられる観音菩薩が祀られているのが、京都東山にある泉涌寺で、 先日は、この観音像を訪ねて、泉涌寺へと行ってきました。 この「楊貴妃観音」が日本に伝えられたのは、鎌倉中期のこと。 南宋に行っていた湛海という僧が、日本に持ち帰り、 ここに安置したものであると云われていて、 永らく秘仏として、人の目に触れることなく収蔵されていたものなのだそうです。 しかし、昭和30年、それが、一般に公開されることになり、 それ以来、この観音像は、一躍、脚光を浴びることとなりました。 美貌の観音像との対面。 しかし、堂内は撮影禁止ということになっているので、 買ってきた絵葉書の写真から、これを、ご紹介することにします。 何ともいえぬ気高さにあふれた観音像で、 その姿はきらびやかで、とてもエキゾチック。 親しみやすさというよりも、凛とした威厳のようなものさえ感じます。 この観音像、近頃では、マスコミにも色々と取り上げられていて、 美人祈願・縁結びの観音様として話題にもなっているとのこと。 この日も、様々な年齢層の女性の方が、何人か参拝に来られていて。 美人祈願のお守りを買われていました。 これも、女性の美貌に対する、あくなき探究心の現われなのでしょうね。 「楊貴妃観音」の参拝を終え、次は、泉涌寺の境内を歩いてみます。 実は、この寺、またの名を「御寺」(みてら)とも呼ばれているほど、 皇室とのつながりが深いお寺なのです。 伽藍の中心となっている建物が、この仏殿と舎利殿。 仏殿は、徳川4代将軍の家綱により再建されたものということで、重要文化財。 その内部には、釈迦・阿弥陀・弥勒の三尊像が安置されています。 一方の舎利殿は、狩野派による天井絵が有名。 特に、蟠龍図という龍の絵は「鳴き龍」として広く知られているということです。 この泉涌寺、元々の由来としては、 弘法大師・空海が、ここに一庵を結んだことに始まるとされていて、 その後、鎌倉初期に、俊芿(しゅんじょう)大師という高僧が 寄進を受けて、寺域を広げ、このような本格的伽藍にまで、整備していきました。 この時、寺地の一角に清泉が涌き出てきたといい、 これが吉祥であるということから、この時に寺名を”泉涌寺”に定めたとされています。 この泉涌寺の名の由来になったという「泉涌水屋形」という建物は、今でも残されています。 泉涌寺と皇室とのつながりが、深くなっていったのは、鎌倉初期のこと。 俊芿大師没後においても、皇室のこの寺に対する帰依は厚く、 四条天皇崩御の時には、ここで葬儀が行われて、山陵(月輪陵)が造営されました。 それ以降、幕末に至るまでの間、歴代の天皇・皇后の葬儀は、ここで行われることとなり、 月輪陵には、多くの天皇が葬られました。 そうしたことから、この寺は、長きにわたって皇室の菩提寺とされてきたのでありました。 泉涌寺には御座所という建物があり、そこには天皇が御幸の時に座られる部屋、玉座の間もあります。 明治期に御所より移されたものということで、 今でも、天皇が泉涌寺に来られた時には、ここに入られるとのことです。 又、御座所からつながる霊明殿という建物には、 天智天皇以降、歴代天皇の御位牌が祀られているといい、 この寺では、今でも、皇室の御霊に対して、毎日、経をあげ、回向しておられるのだそうです。 高い格式と歴史の重みを感じさせる御寺・泉涌寺。 そんな中でも「楊貴妃観音」のきらびやかさは、一際、光彩を放っているように思います。 泉涌寺というところは、他の寺院ではなかなか味わえない、 特別な高貴さが感じられるお寺であると思いますね。
今では、めったに映画館に足を運ぶことがなくなったとはいうものの、 それでも若い頃は、しばしば町の映画館にロードショーを見に行ったものです。 映画館も、最近ではシネコン(シネマコンプレックス)と言って、 複数の映画を一か所で上映するというスタイルに変わってきていますね。 以前に比べ、快適で便利にはなったとは思う、その反面、 効率が追及され過ぎているような感じがして、 昔ながらの映画館というのが懐かしく思ったりもします。 そんな、昔ながらの映画館の代表的なものとして、 大阪ミナミに「南街会館」というロードショーの上映をする専門館がありました。 この「南街会館」は、その前身を南地演舞場といって、 実は、ここが、日本で初めて劇場映画が公開された場所だったのです。 それは、1897年(明治30年)のことで この時、上映されたのが、「動物園のライオン」「公園の水撒き」など12本の無声映画。 動く写真を見てみたいと、観客が殺到したのだといいます。 この南地演舞場の跡地も、今では「TOHOシネマズ」というシネコンになっているのですが、 それでも、ここが映画発祥の地であったということの痕跡として、 「TOHOシネマズ」へと向かうエレベーターフロアの片隅に、 「映画興行発祥の地」という記念プレートが残されています。 さて、今回のお話は、日本映画草創史。 この日本で初めて映画上映を行ったという人物が、 関西の実業家であった稲畑勝太郎という人なのですが、 まずは、彼の生い立ちから話を始めたいと思います。 稲畑勝太郎は、1862年(文久2年)京都の菓子職人の家に生まれました。 幕末の混乱期で家業が傾いていく中、苦学を続け、師範学校へと進みます。 しかし、勝太郎は、若いながらも、その鋭敏の才と学力が認められたのでしょう。 師範学校卒業後、15歳にして、一躍、京都府の派遣留学生に選ばれ、 フランスのリヨンに公費留学することになります。 この時、彼が命ぜられたのは、染色の研究。 これは、当時、東京遷都によって京都の町が衰退していく中での 京都復興策の一環でもありました。 リヨンという町は、当時、世界的な絹織物の中心地となっていて、 ここで、勉学を積み、最先端の合成染料と染色技術を学ぶことが、 彼に与えられた使命なのでありました。 勝太郎は、リヨンの工業学校を出たのち、リヨン大学へと進みます。 また、勉学だけではなく、染工場への徒弟奉公を続け、 過酷な労働の中、実地での染物技術を会得していきました。 8年間の留学期間を終えた勝太郎は、1890年(明治23年)に帰国。 京都で稲畑染料店(稲畑商店)という会社を創業します。 しかし、そんな勝太郎が、映画と出会い、これに魅せられていくこととなったのは、 彼が商用でフランスに出掛けていた時、リヨン留学時代の同級生であった オーギュスト・リュミエールと再会したことによるものでした。 リュミエールといえば、シネマトグラフという撮影・映写機器を発明したということで 知られている人。 映写機ということでいえば、このシネマトグラフより先に、 エジソンがキネトスコープという機械を発明していたのですが、 これは、一人でのぞき眼鏡を通して映像を見るという方式のもので、 一度に複数の人がスクリーン上の動画を共有する 今の映画にあたるもの、ということでいえば、 その開発者は、リュミエールということになります。 勝太郎と再会したリュミエールは、シネマトグラフを見せて、 これが画期的な発明であるということを勝太郎に説明しました。 これを見るや勝太郎は、この最新の光学装置に衝撃的な魅力を感じ、 即座に、巨額を投じて、シネマトグラフを日本に輸入することを決意します。 リュミエールから、装置2台とフィルム、さらにシネマトグラフの興行権を買い取り、 さらに、撮影技術者も一人つけてもらって、日本に帰国してきました。 京都に戻ってきた勝太郎、すぐさま、試写実験に取り掛かりますが、 しかし、電気がやっと通ったばかりの日本でのこと、 この試写実験は悪戦苦闘を強いられることになり、 変圧器を特注し、一週間以上も試行錯誤を経て、 それでも何とか映写実験の成功にこぎつけました。 そして、その第一回の上映を行う場所が、大阪の南地演舞場に決定。 リュミエールから提供された「動物園のライオン」「公園の水撒き」など12本を 上映することになりました。 この上映会は、大成功を収めることとなり、 自動写真と呼ばれて、当時、大きな反響を巻き起こしました。 続いて、勝太郎は日本初の映画撮影にも携わっていきます。 フランスから連れてきた撮影技師が、リュミエールからの要請もあって、 さまざまな日本の風景や日常を撮影したのです。 この時、日本を舞台として映画に撮られたのが、 「稲畑家の食事風景」や「北海道のアイヌ」などのフィルム。 これらは、映画という文化を日本に根付かせる、最初の第一歩になったものであるといえます。 こうして、日本に初めて映画を持ち込み、その最初の興行者ともなった稲畑勝太郎。 しかし、ほどなくして、勝太郎は映画の興行から手を引くことになります。 それは、彼の本業は、あくまでも紡績産業を発展させることであり、 また、映画の興行というものは、片手間で出来るようなものでなかったということだったのだろうと思われます。 勝太郎はその後も、染色事業で画期的な業績を残し、 また、関西の実業界をリードし続けて、大阪商工会議所の会頭まで務めたりもしました。 ところで、その後の映画興行はどうなっていったのか。 勝太郎は、映画の興行から手を引くのに当たって、 映画の興行権をはじめ、機械、フィルムなどの一切を、 これもフランス留学時代の同窓生であった横田万寿之助という人物に譲りました。 万寿之助は弟の永之助とともに、勝太郎の意志を受け継ぎ、 兄弟で、勝太郎の映画事業を引き継いでいくことになります。 まず、横田兄弟は、巡業隊というものを編成して、 浅草、北海道、東北、北陸と、次々に全国に映画を興行して廻りました。 上映する内容も、最初はリュミエール社などから、新作フィルムを輸入していましたが、 横田商会という会社を設立してからは、日露戦争を撮影した記録映画の製作や 自作の活動写真製作にも徐々に着手していきました。 そうした中、やがて横田は、映画を芝居仕立ての娯楽として展開していこう、 ということを考えるようになります。 そこで、横田が見い出したのが、京都・千本座の若き座主であった牧野省三という人物。 横田は、芝居演出に長けた牧野に活動写真の製作を委託し、 その後、彼のもとで、次々と時代劇の映画が作られていくことになります。 その第一作目が「本能寺合戦」という作品。 続いて「碁盤忠信・源氏之礎」という作品では、尾上松之助という役者が人気を集め、 全国に「目玉の松ちゃん」旋風を巻き起こしました。 こうして、牧野省三は、日本で初めての映画監督となり、 尾上松之助は、日本で最初の映画スターとなっていったのでありました。 そうした中で、やがて、京都が、 全国の、特に時代劇における映画撮影の拠点となっていきます。 その後は、東京を中心に映画興行を行っていた大手3社が、横田商会と合併。 「日本活動フィルム株式会社」(日活)が発足し、 日本映画はその後も発展を続けていくことになったのでした。 日本映画は、近年、とみに海外でも高い評価を受けて、 映画祭において、度々賞を受けたりしていますが、 その礎は、こうした形で、先人たちが築いてきたもの。 そして、そのきっかけとなったのが、 フランスで、ふとしたことから再会した、リュミエールと勝太郎との出会いであったのです。 さて、最後に、もう一度、稲畑勝太郎の話です。 勝太郎が設立した会社は、その後、なおも大きな発展を遂げ、 現在も、稲畑産業という上場企業となって、業績を残し続けてきています。 いち早く、日本に映画を導入するなど、優れた先進性を持った起業家であった稲畑勝太郎。 そんな勝太郎の生涯と業績を描いたフィルムをYouTubeで見つけました。 内容は、稲畑産業のPRのようではありますが、 稲畑勝太郎のことをうまくまとめてあるので、最後にこれをご紹介したいと思います。 パイオニアのDNA 受け継がれる創業者の精神
昔々、あるところに・・・。 という書き出しで始まるのが、昔話のお決まりのパターン。 しかし、京都に伝わる昔話や伝承というのは、 そういう時間や場所があいまいな話というのが、意外と少なくて、 逆に、もっと具体性を帯び、実在の人物が登場してくるようなものが多いというのが、 その特徴のひとつであります。 どのようなものがあるかと云えば、 ・大蜘蛛退治により、源頼光の熱病が治ったという話。 ・石仏を城に持ち帰った秀吉が、 石仏が元の場所に戻りたいと泣くために、それをそっと元に戻したという話。 ・千宗旦に化けた狐が、見事な手前を見せて、人々を驚かせたという話。 等々。 しかも、それらの話が伝わる場所には、 それにまつわる遺跡が残されていたりする場合も多くあります。 そこで、今回は、そうした京都に伝わる伝承のひとつ。 「忠盛灯籠」というお話を、ご紹介したいと思います。 この話に登場してくる人物はと云えば、白河法皇と平忠盛。 平忠盛というのは、ご存知のとおり、今年の大河ドラマにも登場してくる平清盛のお父さんですね。 そして、この伝承は、 平忠盛という人が、いかに思慮深く、判断力に優れた人であったかということが伝わってくる、 そんな逸話でもあります。 ( 忠盛灯籠 ) 平安末期の永久年間、ある雨の日の夜のこと。 白河法皇が、祇園女御に会いに行くために祇園・八坂神社のあたりを通りかかったところ、 前方の北の森に明かりがついて、怪しげな鬼のようなものが見えました。 法皇はお供についてきていた平忠盛に、この鬼のようなものを討ち取るようにと命じます。 しかし、忠盛は、法皇の命ながらも、これを討ち取ることはせず、 まず、その正体を見極めようと、これを生け捕りにしました。 すると、何とそれは、鬼などではなく、 八坂神社の社僧が灯籠に灯明を灯そうとしていたところで、 雨具の蓑が、灯明の光で銀色の針のように見えていたものなのでありました。 無用に人を殺すことなく、冷静に対処した忠盛のこの思慮深い行動に、 人々は、こぞって感嘆の声をあげたのだそうです。 その後、このことから、人々は、この灯籠のことを「忠盛灯籠」と呼ぶようになりました。 京都・八坂神社にある石灯籠のひとつ。 本当かどうかはわかりませんが、 この灯籠が、その時の灯籠であるといわれています。 しかし、いかにも古そうなこの灯籠には、 忠盛のこの伝承を、彷彿とさせるものがありますね。 この「忠盛灯籠」があるのは、八坂神社・本殿の東側。 今も、この灯籠は、悠久の歴史を刻むかのように、佇んでいます。
梅の香漂う天満宮。 紅白の梅が花を咲かせるこの時期の北野天満宮は、受験シーズンとも重なって、 観梅や合格祈願に訪れる人々で、とりわけ賑わいを見せています。 天満宮の祭神・菅原道真は、ことのほか、梅の花を愛していたといい、 そうしたことから境内には、多くの梅の木が植えられています。 2月25日は梅花祭。 菅原道真の命日にちなんだこの祭礼は、1000年の歴史があるともいわれていて、 この日は、近くの北野上七軒の舞妓さんによる野点の茶会などもあり、 より一層の華やかさに包まれます。 学問の神様、天神さんとして、庶民からも親しまれている菅原道真。 その道真を祀った天満宮は、全国に一万二千社あると言われていますが、 北野天満宮は、その総本社。 しかし、道真自身が、この北野の地に特にゆかりがあったのかというと、 実は、そういうわけでもなくて、北野に道真が祀られるようになったのは、 天満宮社の成り立ちの中で、この地に社が建てられるようになったものなのでありました。 そこで、今回のお話は、菅原道真と天満宮について。 京都市内にある、道真ゆかりの神社、 そのいくつかを訪ねながら、道真の生涯と天満宮の由来について、 まとめてみたいと思います。 この神社は「菅大臣神社」といいます。 四条烏丸のオフィス街からも、ほど近いこの神社が、 菅原道真の邸宅のあった場所であるとされています。 道真が開いていた私塾や道真の書斎などが かつては、ここに立ち並んでいたのだそうです。 菅原道真という人は、幼少の頃から、学問や詩歌に抜群の才を見せていたようで、 宇多天皇の信を受けて、とんとん拍子に出世し、 やがて、右大臣の位にまで昇りつめていきました。 効果がなくなってきていた遣唐使を廃止するなど、いくつもの改革を実施し、 次第に、当時、権勢を欲しいままにしていた藤原氏と肩を並べるほどの存在となっていきました。 しかし、そんな中、政敵であった藤原時平から、 ”道真は皇位の簒奪を図っている”との、あらぬ嫌疑をかけられ、 福岡の大宰府へと左遷されてしまうことになります。 失意のうちに、大宰府へと赴任していく道真。 その後、程なくして、任地でその悲運の生涯を閉じることになりました。 東風吹かば にほひおこせよ梅の花 主なしとて春なわすれそ 道真が大宰府へと左遷される時に、 自宅の梅の花を見て詠んだというのが、この有名な歌。 そして、この時、その梅の木が道真を慕い、 大宰府まで飛んで行ったという飛梅伝説も、有名な話ですね。 道真が、この歌を詠んだのが、自宅のあったこのあたりであったとされていて、 その飛梅伝説の梅の木も、この管大臣神社の境内に残されています。 悲嘆の中で生涯を閉じた菅原道真。 しかし、道真の死後、京の町では、天変地異や政治の混乱などが相次いで起こります。 政敵であった藤原時平が若くして亡くなり、皇族の中にも病死者が続出、 続いて、清涼殿にも落雷があって、御所が焼失します。 そうした中で、これらの異変は、道真の怨霊によるものであると、 人々は、恐れおののくようになっていました。 その後・・・ 道真の死から40年ほど経った、ある日のこと。 多治比文子という女性のもとに、突如、道真の霊が現れます。 道真は、文子の夢枕に現れたといい、 この時、「われを北野の地に祀るべし。」 と、そう文子に告げたのだと言います。 道真からのお告げを聞いた文子。 しかし、彼女はとても貧しかったので、そんな神社を作ることなど、とても叶わず、 せめてもと、自宅の庭に道真を祀る小さな祠を建てました。 そして、これが最初に道真を祀った神社となり、 天満宮の起源になったのだとされています。 多治比文子、自宅跡の地。 それが、今も「文子天満宮」という神社となり残されています。 また、ここの神社には、最近建てられたもののようではありますが、 多治比文子の像まであります。 多治比文子という女性は、いったいどのような人だったのか。 巫女であったとも云い、童女であったとも云い、 あるいは、道真の乳母であったという説もあったりと、 実際のところは、よくわかっていません。 しかし、いずれにせよ道真を祀る天神信仰というのは、 一般庶民の中から生まれてきたものであったということが、特徴的であります。 やがて、その後、 文子と同じように、道真の霊が現れ北野に祀るべしというお告げを聞いた という人が、何人も出てくるようになります。 そうした中で、やがて、道真の霊は、北野の地で祀られるようになり、 それに合わせて、道真の怨霊から逃れたいと願っていた貴族たちからの助力もあり、 北野天満宮は、立派な社殿となっていったのでありました。 最初は、祟りの神であったはずの菅原道真。 しかし、それも、人々から天変地異の記憶が薄れていくとともに、 やがて、それが学問の神様として、広く親しまれるようになっていきました。 そもそも、天神信仰というものが、一般庶民の信仰から生まれてきたものであった、 ということがあるためなのか、「天神さん」は、今でも、庶民から慕われている人気の神様となっています。 特に、合格を祈願したいというような時には、 誰もが、道真公のお世話になっていると云えるのではないでしょうか。 無念の生涯を送った道真ではありますが、 今では逆に、人々が無念の思いを持たないよう応援してくれている、 そんな存在になっているかのように思えます。 |一覧| |
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