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ぐすたふ369の日記 [全341件]
実は、ブログ引っ越したのですが、ここの楽天に直接来ている人たちの中に、気がつかないでいる人がいたことを最近知りました(笑)。 FC2に引っ越しています。我が家の風景のトップページか、以下のURLで行けます。 http://gustav369.blog101.fc2.com/ よろしければ、お越しください。
某日記でタルコフスキーのことで盛り上がったので、改めて項を改めてみました(笑)。青春の思い出の映画監督、ですね。 じゃくさんに教えてもらったのだけれど、タルコフスキーが撮ったのは8作品、あとひとつ撮っていたら、これもまた9作品、だったのですね。 1番:ローラーとバイオリン Katok i skripka (1960年) 2番:僕の村は戦場だった Иваново детство (1962年) 3番:アンドレイ・ルブリョフ Андрей Рублёв (1967年) 4番:惑星ソラリス Солярис (1972年) 5番:鏡 Зеркало (1975年) 6番:ストーカー Сталкер (1979年) 7番:ノスタルジア Nostalghia (1983年) 8番:サクリファイス Offret (1986年) 「交響曲作家たちは、自分たちが生み出す交響曲が不思議な鏡像をなして人生を予言していることに、自分自身では気付かないことが多い。ベートーヴェンしかり、マーラーしかり、チャイコフスキーしかり、ショスタコーヴィチしかり...」(吉松隆)・・・・さて、こうして並べてみると、このことをタルコフスキーでもやってみたくなるのは人情というものでしょう(笑) ただ、この中では(知っている人なら分かってもらえると思うけれど)、1番とした「ローラーとバイオリン」をタルコフスキーの「番号付き交響曲」として数えるのは無理がある、と思う(卒業制作、ですからね。マーラーでいえば、巨人の前にかかれた「嘆きの歌」のようなもの)。そうすると、逆に一つ減って、「7曲の交響曲」としていいんじゃないか。 すると、暗喩に満ちた自伝的な、映像表現としてはいくところまで行った感のある「鏡」を中心点として、SFを底本としながら換骨奪胎した「ソラリス」と「ストーカー」、「ロシア人」というキーワードが共通の「アンドレイ・ルブニョフ」と「ノスタルジア」、そして「戦争」がキーワードの「僕の」と「サクリファイス」・・・・と、これもまた見事に対照をなした星座が描かれる。 で、もしも、タルコフスキーが9番を書いていたら(撮っていたら)・・・・これは、「ローラー」に対応するような、重いテーマを避けた、抒情的な作品になっていたのかもしれないです。 残念ながら、僕はこの「ローラー」観てないのでそこまで言い切れないけれど・・・・さてさて、いかがでありましょう?
たまには、ふつうの日記も書きましょう(笑) 春と秋は会議のシーズン。今年の秋は、今週が京都、来週が東京。昨日と今日と、京都は北の端、宝が池にある国立会議場に行ってました。 今日は天気はいまいちだったけれど、昨日はすごくいい天気。休憩時間に外へ出てみると、まあなんと秋の京都の匂いのなんとも言えないこと。 たまに京都にくると、この都市、ほんとに箱庭のような美しさを湛えていることに気がつく。欧米の都市のような圧倒するような存在感ではなく、ずっとスケールダウンした佇まい。でも、そこにある有無を言わせぬ「京都」という唯一無二の力。 経済力だけからいえば、もっとさびれていても仕方のない都市だと思うのだが・・・・この都市もまた、どこへ向かおうとしているのだろう? 東京があまりに膨張しすぎておそらくはそのアイデンティティを失い、自壊を始めているかのように見えるのに比したとき、京都のこの「植物的」な在りようは、より強靭な生命力をもって生き残るようにさえ見える。
今日は、CDの録音、FMの収録、TBS(情熱大陸らしいですな)の取材と、マスコミテンコ盛りの定期でしたが・・・ 大阪 ザ・シンフォニーホール センチュリー第145回定期演奏会 小泉和裕指揮 大阪センチュリー交響楽団 ピアノ独奏 アリス=沙良・オット リスト:ピアノ協奏曲第1番変ホ長調 ブルックナー:交響曲第5番変ロ長調 リストについていえば、この21歳の若いピアニストがややこの曲をもてあまし気味。この曲、これでどないや!文句ないやろ!!ぐらいのふてぶてしいヴィルトゥオージシティがあってこそなんぼ、そういうところに魅力があるんですよね。この人、残念ながらそこまでの技量や山師魂は持ち合わせておらず、極めて誠実に弾くものだから、最後の最後の大見栄の大盛り上がり大会が、不発に終わってしまった感あり。それよりも、アンコールで弾いたラ・カンパネラ、そこにあるのは内面からにじみ出るような音楽の表情のつややかさ、こういうところにこそこの人の美質があるように思うなあ。外面的効果を追求する曲は似合わない、んじゃないかしら?むしろ、ベートーヴェンやモーツァルトをこそ聴きたい、と思いましたが。最近には珍しいドイツ出身のピアニスト。聴衆としても、これから大事に育っていってもらいたいものです。センチュリーのバックは、さすが、というに如くはないきりっと引き締まった立派なもの。これは聴きものでした。 ブルックナーは、大変な力演だったことは認めるが、(ずいぶんと気合いが入っていた、と思われる)、残念ながら力演・熱演かならずしも名演ならず、というところかと。 この曲、やはり難物なんや、と思い知る。長く、そして複雑に入り組んだ構成。それがゆえに、よっぽど注意して最後の大コラールに至るまでを計算してやらないと、途中で人によっては辟易してしまうし、人によっては飽きてしまうんだろうなあ。 ぐすたふくんは、この曲、ブルックナーの中では嫌いな方ではない。むしろ、好きな部類の曲で、この間の大フィルを高関さんが振った演奏など、大変な感銘を受けたんだけど・・・やっぱりそれは、指揮者の腕次第・やりよう、だったのかもしれない。 小泉さん、いつものように小泉ダイナミズムでこの曲も料理しようとするのだが、いかんせんそれだけで何とかなるようなものではない。たしかに、センチュリーは律儀にその棒に応え、2管12型のオケで良くここまでの音をだせるなあと感心するまでの響きを鳴らすのだけれど、同じような抑揚・緊張と緩和・クライマックスとクーリング、が繰り返されるばかり。だから、そこを突き抜けてもう一段上がった音楽的感興を覚えるところまで至らない。結局それが、本当ならもっと法悦感をもって迫ってくるはずの4楽章コーダでの物足りなさにつながり、聴いている方としてはただただ長かったなあ、という思いが先に立ってしまう。 そう思うと、朝比奈御大がこの曲を得意にしていた、ということは、やはり御大の芸人魂の証左ということにもなるんでしょうなあ。 小泉さんは、ブルックナー指揮者ではやはりない、という思いを強くしました。ただ、むしろそれがゆえに、次の6番のほうが期待できるかもしれませぬ(4番もよかったしね)。来年となりますが、それは不惑わくわくで待つことにいたしましょう。
1000枚以上あるCDを全部iTuneにとりこみ終わったぐすたふくん、こうなったらレコードをMP3変換してコンプリートライブラリを、と意気込んだわけでありますが・・・・残念ながら、変換ソフトとVISTAの相性が最悪で、フリーズと再起動の繰り返し。挙句の果てには、スタートアップ画面から先に行かないという起動不能に陥り、ほとんどクラッシュ寸前まで行ってしまう始末。先週一週間はその対応・後始末でほとんどつぶれてしまいました。結局、あきらめざるを得ないという結論。やれやれ。 でもまあ、その過程でうちにあった5枚のトミタ・シンセサイザーアルバムは最低取り込むことに成功。で、そうなるとですね、ぐすたふくんのコレクター魂、火がついてしまいまして・・・・ちょうど、2007年にすべてのアルバムがオリジナルジャケットでCD再発売されている!しめた!・・・と、まあ、持っていなかったアルバムをこの際、というわけでネットで注文、揃えてしまったわけでありまする(ようやるわ、とこすもすはあきれ顔でありますが)。 で、あらためてオリジナル・アルバムを全部並べてみると・・・・実はアルバムは全部で9枚、そして最後のアルバムが「ドーン・コーラス」・・・!!!あきらかに、冨田さん、これらのアルバム、自身の「交響曲」とでもいうべき「作品」であった、と思っておられたんでしょう。そして、最後は「第9」、ここはやっぱり「合唱」で締めよう、と思ったに違いない。 1番・月の光(1974) 2番・展覧会の絵(1975) 3番・火の鳥(1976) 4番・惑星(1977) 5番・宇宙幻想(1978) 6番・バミューダ・トライアングル(1978) 7番・ダフニスとクロエ(1979) 8番・大峡谷(1982) 9番・ドーン・コーラス(1984) でも、こうして並べてみても、実際聴いても、TOMITA作品、7番までで終わっても良かったと思う(ぐすたふ君がリアルタイムに聴いていたのも、ここまで)。この中では、4番も改めて良い出来だと感心したけれど、アルバムとしての完成度・サウンドの圧倒的力感という点で、やはり5番と6番が群を抜いている。5番ではそれぞれの曲が完成された小宇宙を呈し、そのサウンドの美しさは尋常ではない。ただ、6番になると、行くところまで行ってしまった感があり、そこに意図されたムジーク・ドラマやSF的イメージに一般聴衆がついていけないところもあったかもしれない。その意味で、今一度シンセサイザーの音楽的表現の可能性を追求しなおした7番も、違う方向で一つの到達点に達している。この3作品、同時期にある程度同時進行のように作成されていたことを僕は知っているが、TOMITAシンセサイザーはここで頂点に達していたのだ、と改めて思わされる。 だから、冨田さん自身、次にどうしようか、と思ったんじゃないかなあ。2年の沈黙は、新しいデバイスを導入し、その扱いに習熟するため、というわけだけではなかったように思う。結局、8番と9番には「この作品を作らねばならなかった」という切迫感が希薄で、サウンド的には確かにより洗練されてはいることは認めても、それ以上ではない。結果的にそれまでの財産や蓄積の上になされたルーティーン・ワークの範囲に留まっており、魅力に乏しいといわざるを得ない。 その一方、1番から3番には、このころにしか聴かれない、実験精神・チャレンジやパッション、アナログシンセならではのぬくもり(!!)なんかがあって、そうしたものが捨てがたい魅力になっている。 こんなところにも、「音楽」というものの不思議さ、をみる気がして、ちょっと考えさせられます。 ただ、吉松隆がしばしば言っているように、「人は人生において、多くの場合シンメトリカルな星座を知らないうちに描いている」・・・そのことを、このトミタ・シンセサイザーに当てはめたとき、7番までで終わったときには、その星座の転回点をどこにもおけない、また7番と1番が到底対応すると思えず、2番と6番もしかり・・・・ということに気がつく。 それでは、9番まで広げたときにどうか?そう考えたとき、5番の一種私小説短編集のような「宇宙幻想」を中心点として、オリジナル・SFシンセ・ストーリーの「惑星」と「バミューダ」(4と6)、バレエ中編組曲1つに小品二つからなるクラシック・アルバムの「火の鳥」と「ダフニス」(3と7)、大規模表題音楽組曲一つの「展覧会の絵」と「大峡谷」(2と8)、そして小品をコンピレーションした「月の光」と「ドーン・コーラス」(1と9)・・・・と、見事に対応した図形が描かれることに愕然とする。 その意味で、やはり冨田氏、意識する・しないにかかわらず、9枚目までを制作しなければならなかったのだな、と思う次第。そして、おそらく二度とオリジナルのアルバムは作成されることもないのだろう。 そして、僕はこの音に胸を躍らせた、10代のことを懐かしく振り返る。
大阪クラシックで北欧の見知らぬ佳曲に出会ったこと、そしてIKEAに行ったことがきっかけで、この数日スウェーデンの作曲家の管弦楽・交響曲を聴いて過ごしています。 実のところ、スウェーデンの作曲家ってあまり知らなかったんですよね。まあ、これはみんな一緒なんじゃないかなあ。北欧の作曲家といえば、ノルウェーにグリーグ、フィンランドにシベリウス、デンマークにニールセン・・・こう考えてきて、あれ?スウェーデンって・・・となるのが、日本の一般的聴衆ではないかと。 それで、以前から気にはなっていたが聴かずに過ごしてきたスウェーデン御三家(ベルワルド、ステンハンマル、アルヴェーン:この三人をチョイスするのは、あながち間違いではないかと思いますが、いかがでしょうか?)のCDをばばばばっと大人買い、でありまする。 フランツ・ベルワルド(1796-1868) ダウスゴー指揮デンマーク国立交響楽団 ・交響曲第1番ト短調『まじめな交響曲』 (1842) ・交響詩『ノルウェーの山の思い出』 (1842) ・交響曲第2番ニ長調『気まぐれな交響曲』 (1842) ・交響曲第3番ハ長調『風変わりな交響曲』 (1845) ・音詩『妖精たちの遊び』 ・交響曲第4番変ホ長調『素朴な交響曲』 (1845) ヴィルヘルム・ステンハンマル(1871-1927) ネーメ・ヤルヴィ指揮イェーテボリ交響楽団(スウェーデン国立管弦楽団) ・交響曲第1番ヘ長調(1902-1903) ・交響曲第2番ト短調(1911-1915) ・管弦楽のためのセレナーデ・エクセルシオール・間奏曲 ヒューゴ・アルヴェーン(1872-1960) ネーメ・ヤルヴィ指揮ロイヤルス・ストックホルムフィルハーモニー管弦楽団 ・交響曲第1番ヘ短調 Op.7(1897) ・交響曲第2番ニ長調 Op.11(1899) ・交響曲第3番ホ長調 Op.23(1905) ・交響曲第4番『海辺の岩礁から』 Op.39(1918) ・交響曲第5番イ短調 Op.54(1942) ・スウェーデン狂詩曲第1番『夏至の徹夜祭』 Op.19・スウェーデン狂詩曲第2番『ウプサラ狂詩曲』 Op.24・スウェーデン狂詩曲第3番『ダラー狂詩曲』Op.47 ・ドラパ『オスカル2世王の追憶に』 Op.27・黙示録カンタータ Op.31~アンダンテ・レリジョーソ・バレエ組曲『放蕩息子』・岩礁の伝説 Op.20・組曲『山の王』 Op.37・組曲『グスタフ2世』 どれも、聴きやすい美しい曲ばかり。でも、こうして通して聴くと、やはりステンハンマルが、音楽の太い線と迫力・ピンと背筋の伸びた佇まいと存在感・説得力のある構成など、一頭抜きんでているように感じる。その意味で、「不当に忘れられている」作曲家、ですね。交響曲第2番とセレナーデが絶品で、シベリウスと同じぐらいに遇されてもなんら問題がない、と思います。 アルヴェーンは、4番の交響曲が抜きんでて良い。ステンハンマルとは1歳しか違わないけれど、こちらの方がモダン。ニールセンの影響を受けた人らしいが(ニールセンがそんなに影響力のある存在とは!!逆にびっくり)、いかにもという響きと構成。ニールセン・シベリウスの作品同様、20世紀になってからの交響曲の崩壊と変容、そのさなかに咲いた一つの華としても好いと思う。ただ、何がといわれると困るのだが、「腰が弱い」感じがするんですよね。これは、他の曲でも同様。良く言えば穏健、悪く言えば食い足りない・突き抜けない。でも、旋律の美しさと透明でモダンな響きの魅力に独特なものがあるのも事実。 逆に、シューベルトと1歳しか違わないベルワルドが、シューマンよりもメンデルスゾーンよりも前にこんなロマン的交響曲を書いていた、ということの方が印象的で、面白く聴きました。やはり、3番の「気まぐれな交響曲」が一番面白く、出来が良い。この曲、アマチュアでも手が届きそうな感じで、その魅力を考えればもっと取り上げられても良いと思うなあ。 などなど、そんなことを考えている今日この頃なのでありまする。
IKEA大阪に行ってきました、ひとりで(笑)。 40もはるかに過ぎたおっさんが、何をやっとんねんな、と思われましょうが・・・だってですね、みなさんはシルバーウィークとかなんとか言ってお休みでしょうが、ぐすたふ君は休んでばかりは居られまへんねん。同僚と交代で仕事をしないと、回らないという現実。今日は、ぐすたふくんの出勤であります。ところが、仕事は思いのほかすいすいと済んで、午前中で完了。さて午後がぽっかりとあいたんですよね。 昨日は、実はこのブログをご覧の方はご存知でしょう(どれだけ居るのかは問わず(笑))、毎年恒例の9月のプールズ(弁天町ですね)。高校生になったのにこんな行事に律儀に付き合うろんろんのおかげで、まあまあ家族みんなで楽しく過ごしたわけでありまするが、さすがに高校生、いろいろとお付き合いがお忙しく、今日からはほぼ毎日お出かけ、です。りんりんちゃんは、5年生、お受験を来年度にひかえて、彼女もスケジュールぎっしり。こすもすお母さんは、そんなりんりんの世話で精一杯・・・・となりますと、お父さんはひとり、思案にくれるわけですよね。 で、そうやなあ、高速道路はどこも大渋滞やし・・・・下道をとろとろ走って、いけるとこまでいってみよか、と・・・・それで、前から気になっていたIKEAまで行ってみたのでありまする。 良い天気、そして普段は滅多に聴くことのない、ウィークデイのFMラジオ。それに耳を傾けながら、空いた大阪市内の一般道を大阪のベイエリアへ向かっていると、それはそれでなかなか楽しい時間でした。 IKEA自体は、スウェーデン家具の今はやりのアウトレットモールみたいな感じのところ。凄い人出で、入店制限しているのには閉口。それでも、独特の異国情緒を感じれたのは、それなりに面白かったです。北欧って、僕にはそれほど違和感がない、むしろ親近感をかんじるなあ、と再認識。レストランで食べた、スェーデン・プレートという前菜盛り合わせが、興味深く美味しく(ミートボールにジャムをつけて食べるんですよ!)、それだけでも来ただけのことはありました。 帰りの車の中、ラジオから流れるドリカムの「大阪ラヴァー」、それを聴きながら登るなみはや大橋、そこから見渡す大阪ベイエリアの壮観・・・・ああ、大阪って、今こんなんになってるんや、全然しれへんかったなあ・・・・ 極道お父さんがこの話、帰ってからみんなに熱く語って聞かせたことは、いうまでもありませぬ(笑)。
まさかここまでの演奏を聴けるとは思っていなかったもので・・・・ 大阪 ザ・シンフォニーホール 大フィル第431回定期演奏会 ヤクブ・フルシャ指揮大阪フィルハーモニー交響楽団 トランペット独奏 マティアス・ヘフス スーク:組曲「おとぎ話」作品16 アルチュニアン:トランペット協奏曲変イ長調 ドヴォルザーク:交響曲第7番二短調作品70 指揮者が、超一級。この人、おそらくこれから来ますね。絶対に来る。恐るべし、チェコ。恐るべし、中欧。去年の同じころだったか、エリシュカおじいさんのヤナーチェクに圧倒されたが、まさかこの若い指揮者からそれに劣らぬ衝撃を受けるとは。 とにかく、大フィルの鳴りが、今日は違う。明らかに違う。初めて聴いたスーク、そこにあるすーっと通るような風の匂い、澄んでいるようで微妙な響きの色合い、温かな肌合いの感触。弦の響きが、陳腐なたとえだが、「まるでチェコフィルを彷彿とさせるような」音を奏でる。 それは、ドヴォルザークで熱い血の滾りを見せるところでも一緒。そこにあるのは、胸の底から謡われる豊かな歌、絶妙のアゴーギグ。それらが一気呵成に上り詰めるクライマックスの見事さ、壮絶さ。その一方で、音楽は決して野卑にも俗にも感傷にも淫することはなく、凛とした姿勢を保ち、時に気品すら湛える。 ドヴォ7では楽章を追うごとにどんどん音楽はヒートアップ、3楽章を聴いているとき、これ、実はとんでもないものを今僕は聴いているんじゃないか、と思い始め、4楽章に至っては、もう完全にノックアウト。コーダなど、まるでミサかなにかの最後のアーメン大合唱の如く、その荘厳さといったら・・・ぐすたふくん、終わったとき座席に深く深く沈んだまま、しばらく動けませんでしたもん。 それで、2曲目もまた凄くてですね・・・・このソリスト、何者なんや?ぐすたふ君が知らないだけで、とんでもない人なんだろうか?菊本君の演奏を聴いたときも凄いと思っていたが、申し訳ないが、2枚ぐらい上手です。とにかく、鳴る音が何ともいえず「甘い」んですよ、色気たっぷり、といってもいい。その表現力たるや・・・いや、参りました、降参であります。好きにしてください(笑)。フィギュアスケートでロシアの選手の演技を見たときの感慨に似ている。明らかに「違う域」にあるんですよ、そうとしか言いようがない。 お国ものだから、と言ってしまうのは簡単だが・・・おそらくは、このフルシャ、チェコフィルの常任にまで上り詰めるのではなかろうか、それくらいの指揮者ではなかろうか。ぐすたふ君としては、これから注目していきたいものでありまする。
タイトルそのまま、です。 大阪 ザ・シンフォニーホール センチュリー第144回定期演奏会 ジョセフ・ウォルフ指揮 大阪センチュリー交響楽団 ピアノ独奏 アンドレ・ワッツ エルガー:弦楽セレナードホ短調作品20 エルガー:「ため息」 作品70 ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第4番ト長調作品58 ハイドン:交響曲第104番ニ長調「ロンドン」 エキストラがほとんど乗らない、二管10型のセンチュリー本体での演奏会。そして、曲目もまた、「これが本来のセンチュリーのプログラムだろう」と思わせるもの。演奏自体も、「センチュリーとはこういうオケだったはずだよね」という感慨に耽らせるに充分な、立派なもの。 今日はそのことだけでいいぐらい。こういう音楽の為に、この団体はあったはずだし、そして、聴衆もまた、そういう音楽を求めて、ここに(いや、本当なら、いずみホールに!!)集まってきていたはず、と思う。 その音楽をかみしれば噛み締めるほど、輝かしい過去の残照を見ているような気がして、なんともいえない気持ちになってしまう。 エルガーの2楽章と「ため息」が絶品。こんな繊細な音像、関西で他にどこが望めるだろう?ベートーヴェンでは、ワッツの音楽を奏でることの困難さを微塵も感じさせない、まるで鼻歌でも歌っているかのような自然な息吹の音楽も素晴らしいが、それにかっちりした構成感で応える「古典美」を添えるあたりも見事。 そして、ハイドンもまた、過不足のない誠実な演奏。ただ、終楽章の再現部からコーダにかけてアクセルをかけた(ここでアクセルを踏むか?と思いましたが(笑))指揮者に付いて行くのは至難の業であったらしく、少々破たんが見えましたけれどね。 チェロ主席の林さんの名前がなく、一人・また一人と首席クラスから消えていく現実を目の当たりにし、なんの説明もなく芸能人や文化人によるセンチュリー応援団が解散した、という記事をプログラムに見るとき、これまでか、という思いがよぎる。 本当なら10月に来期の定期会員の案内がくるはずだが、さて、どうなるのだろうか?はたして・・・・
今年もまた、夏が終わる。 大阪 大阪市役所正面玄関ホール 大阪クラシック第99公演 フルート 野津臣貴博 ドビュッシー:シリンクス スグラーヤ:3つのフラメンコ的超絶技巧練習曲より第1番 宮城道雄:;春の海 マラン・マレ:ラ・ファリア 大阪 大阪東銀ビル 大阪クラシック第100公演 大植英次指揮 大阪フィルハーモニー交響楽団 語り 平松邦夫(大阪市長) コープランド:リンカーンの肖像 リムスキーコルサコフ:交響組曲シェエラザード (アンコール) J・ウィリアムズ:スターウォーズ 民謡メドレー~八木節 帰りの電車の中で、iTuneでダウンロードした、チューバ協奏曲の2楽章を何度も何度も繰り返し聴いては反芻しながら帰ってきました。今の気持ちは、この曲が最もしっくりくるかもしれない。 今年の夏が終わる。 愉しいトークの野津さん、昨年よりもずっと刈り込んだ台詞でゆっくりと噛み締めるように「市民」に呼び掛ける平松市長、そしてシェエラザードの熱演、スターウォーズの高揚、民謡と八木節で改めて確認する「みんなで作り上げた音楽祭」。 今年のこの場所に居させてもらったことを、神に感謝。そして・・・・ 来年から、僕はこの場から身を引こうと思う。この場所には、僕ではない誰かが居ることこそが相応しい。 そして、僕は僕が成すべきことをしよう、と思う。この街の、大阪の、「交響楽」のために。 |一覧| |
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