池内昭夫のブログ 「徳育」について(2)
東京新聞は,「『修身』復活はごめんだ」と題する社説で,徳育の教科書作成について次のように否定的見解を述べた。
すでに小学校では副教材「心のノート」が使われているが、これには一定の考え方や感じ方を教え込むものではないかとの批判が出ている。検定を受け、一定の枠にはめられた教科書で徳育を教えることはその傾向がさらに強まる(6月2日付)。
枠をはめること・・・倫理がひとつの枠であればこそ、それは徳育の基本でしょう。
『修身』を読んで御覧なさい。それは当時の先進国の倫理の中でトップクラスです。また、21世紀の世界においてもトップクラスであると言えます。
初等教育と大人の教育は全然異なるものです。初等教育においては「解かり易い作り事」も交えて「絶対的服従の価値体系」を叩き込みます。その「絶対的服従の価値体系」の本質を維持しつつ、また、「作り事」を自ら排除しながら、大人に相応しい「主体的な価値体系」を構築していくのが大人の徳育だと思います。
年齢から言って、いま『修身』に難癖をつけている人達は初等教育の徳育しか知らないはずです。「作り事」を捨象して「主体的な価値体系」に至らない幼稚な精神構造で『修身』を非難する・・・それは自分自身の精神的未熟さを暴露しているようなものです。
一方、野蛮国(イスラム・朝鮮・中国)では「解かり易い作り事」が混ざり込んだ「絶対的服従の価値体系」から止揚する大人の徳育のチャンスがありません。「作り事」すなわち神話をそのまま信じ切って宗教家・部族軍・官僚の特権を維持しています。必ずしも神話を信じているケースだけではなくて、信じる振りをして特権階級であることに固執しているようです。
そういう危なっかしいこともありますが、明治日本は見事に脱亜入欧を成し遂げたのですから、その心配はないと思います。初等教育の徳育から大人の徳育にスムーズに止揚できると思います。
社説子は,一定の枠にはめることを忌避しているということなのだろうか。<検定を受け、一定の枠にはめられた教科書で徳育を教えることはその傾向がさらに強まる>などと分かり難い文章を書かれているので真意をつかみかねるのであるが,社会には一定の枠が必要なのは言うまでもないことである。
「一定の枠にはめられた教科書で徳育を教えることはその傾向がさらに強まる」・・・これは初等教育徳育レベルを超えていない幼稚な考え方です。
「一定の枠にはめられた教科書で徳育を教える」からこそ「作り事」を自ら排除しながら、大人に相応しい「主体的な価値体系」を構築していくという大人の徳育に止揚できるのです。いろんな「作り事」が許されて御覧なさい、「作り事」を捨象しきれませんよ。
簡単に言えば,徳育の1つの目標は,社会の秩序を維持するために制定されている法律の抜け穴を埋めるということであろう。言い換えれば,法に触れなければ何をしてもよいなどという考え方が生まれないように,法を超えて人としてのあるべき姿を示すのが道徳というものであろうと思われる。
同感です。
ただし,この枠とはどのようなものであるのかについては一定の議論が必要である。私が懸念するのは,このあたりの議論が曖昧で不十分であるということである。(続)
枠については大体予想ができますが、楽しみに待っています。