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カテゴリ:オーラの泉
8月15日に放送されたお盆スペシャル。お三方がステージ中央に立っておられます。
国「さあ、今日はですね、8月15日ということで…終戦記念日です。 皆さんにはですね、毎年、戦争の貴重なお話を伺っているんですけれども…」 美「はい、よろしくお願いします…☆」 国「…はい、ということでですね、今日はですね、またまた凄いゲストが来ちゃいました… 『北の国から』の脚本家、倉本聰先生が…トーク番組に出るってこと… なかなか無いことですよね?」 美「ええ」 江「これは必然ですね…必然」 国「また色々あるんですよね?」 江「ドラマがありました」 国「今日、来るまでには…本当に色んなハードルを乗り越えて…」 江「本当に」 (倉本さんがお越しになった様子は、先週、アップさせていただいています。) 国「そしてですね、今日は、まあお盆でもあります…僕なんかもう、お盆というイメージが どんどん無くなってってるんですよね…『ナスときゅうりの日』っていうイメージがね…☆ 強くなってきちゃってるんですけれども…」 美「それは関東の方だけね」 国「あ、そうなんですか!」 美「うん」 江「気持ちですよね。あの…お葬式のときだって、何か皆さん、棺おけにお金を入れたりね… 何か…向こうでは要らないのに☆だけど、そういう形、 気持ちだけってやるじゃないですか…」 美「慰霊ですよ。お慰めするっていう意味だから。だから形式的にね、『ナスときゅうり』… 『こうやって、こうやって、こういうものを必ず出さなきゃいけない』っていうことは無くて それは気持ちで…自分たちの経済的なね、範囲で故人の好きだったものとか そういったものを…お水一杯でもいいから…気持ちを差し上げること。物じゃない。 だから物という形にして『これだけの気持ちを持っておりますよ』っていう代理なんですね」 今回は天国からのメッセージが、逸見政孝さん、河島英五さん、出門英さんの ご家族に伝えられます。 国「…物凄い回になりそうです。本当に愉しみです☆」 最初にお越しになったのは、1993年12月25日に48歳という働き盛りで亡くなられた 故・逸見政孝さんのお子さん・太郎さんと愛さん。 逸見さんの会見の模様 「私が今、侵されている病気の名前…病名はガンです」 当時21歳だった太郎さんは、今年1月から司会者としてお父さまと同じ道を歩み始め 当時18歳だった愛さんもレポーターや司会など、タレントとして活動中。 画面には太郎さんが「5時に夢中」という番組で挨拶される様子も映りました。 生前、多くを語らなかったという逸見さんから伝えられるメッセージとは。 国「…ということで…まあ『オーラの泉』ですけれども… お二人は初めましてになるんですか?」 太郎さん「はい、初めましてですね」 美「お父さまとはね、私、仕事で…ご一緒させていただいていたんですけれどね… さっき楽屋で、お見かけしたときに『え?!』と思ったの。輪郭とね… (口の周りに触れて)ここいらが…もう同じなの、みんな…」 太「本人的には『父親より格好いい』と思っているんですけれども☆」 国「いや…お父さんより…眼力は強いですね☆」 太「あーそうですか☆」 国「さきほどの…(VTR)『これからやりますんで、よろしくお願いします!』って 言ったときの、あの目は…物凄くうったえる目でしたよね、あれは…」 太「そうですね、初めていただいたレギュラー番組でですね、毎日、生放送なんですよ、 夕方の5時から…ですからもう…今までの芸能生活の中でですね、気合入ってましたね☆」 国「…の目でしたよね、あれは☆」 太「何かもう、凄い目になってましたね、今☆改めて見ましたけれど…はい☆」 国「…病院でのお父さんって、どんな様子だったんですか?」 太「…会話はほとんど無い状態ですか…『あ、来たんだ』っていう感じで目と目を合わせたら… それでまあ1個終わるんですよね…」 国「『痛い』と…そういう様な言葉は…」 太「一切、無かったですね、はい…あまりにも…何を考えているのか… 痛いのか痒いのか何なんだかよく分からないんですよね」 愛さん「本当にしゃべらないんです。だから、どう感じているのか、 何がしてあげられるのかっていうのが、何も無いんですよ、私たちに」 国「どんな言葉を交わしたかっていうのは覚えていますか?」 太「…最後も結局、何もこう…コミュニケーションって、いわゆるこっちが何かを言って 何かを返してくれたっていう印象が無いんですよね」 国「そうなんですか…」 太「はい。まあ亡くなる一日前なんですけど…まあ意識が朦朧としてる中… いきなりスクッと起き上がった瞬間があったんですよ。『お!』と思うじゃないですか。 そうしたら、何をしだすのかと思ったら、当時、自分がやっていた番組の司会の オープニングシーンを、いきなりし出したんですよ」 国「ええ?」 太「いきなり手を叩き出してですね(パチパチと拍手)…今度、何かを言うのかな?と思ったら 当時、携わっていた制作の方のお名前をですね… (愛さんとご自分を指して)我々の名前じゃないですよ、 仕事を一緒にしてる人たちの名前を何名か呼び上げたんですよね。これは本当に驚きました」 1988年10月から放送が始まった「クイズ世界はSHOW by ショーバイ!!」の 映像が映ります。 「えー…日本テレビの電波に初めて私の顔と声が流れます。 『クイズ世界はSHOW by ショーバイ!!』 司会、それは私です、いっつみぃ、よろしくお願いいたします」 「平成教育委員会」「いつみても波乱万丈」の司会など、フジテレビを退職後、 フリー司会者としても大活躍された逸見さんは、いつも番組のことが 頭から離れなかったようです。 江「だから…その…すごくコミュニケーションを求める人もいれば… そうでない、むしろそれを望まない人もいるってことなんですよ。 どっちがいいとかじゃなくって、語って理解し合いたい人と 言わずして思いをお互い通じ合わせたいっていう…古風なね、昔ながらの… そういう人もいるってことでね… それがその…寂しいとか思いはあるかもしれませんけれども…もうちょっとこう… 『言って欲しい』とかね、あるかもしれないけれど、でも本人のそれは… 望みでもあるわけですよね… あの、私…ご存知ですか…私、10年くらい前に…あの…ある番組でね、 あの…お母さまに、お父さまのメッセージを伝えたことがあるんです」 愛「え?」 太「あ、本当ですか?」 江「知りませんでした?」 太「はい」 江「で、その時に、実はこのひと言だけ言ったんですよ。 『太郎のことが心配だ…って言ってます』って伝えたんですよ。 そうしたらば、その時に、お母さまが『実は昨日』…だか『今日』だか忘れましたけど 『ちょっと色々言い争いをして、家を出て行けと言いました』って…『息子に』… そんな時があったんじゃないかと…」 太「ありました、ありました」 江「で、その時に『ご主人は、母は母でいて欲しい、と。自分はいなくなったけれども 男になる必要はない』『要するに、今、自分が支えなくちゃいけないって 自負しているからかもしれないけれども、あまりにもゆるみが無い。 もう少し受け入れてあげることとか、時間を待ってあげることとか そういうことも必要だ』と。 『だから、僕がいなくなったとしても、母でいてあげて欲しい、子供たちには』っていうね、 メッセージを伝えたの。全然、聞いてませんでした?」 太「はい、そのお話は…そうですね…」 美「お母さまがご自分でおっしゃらなかったのよ、それ☆」 国「言い合ったことは覚えているんですか、お母さんと?」 太「覚えてますよ…結構大きな…討論がありまして…」 美「討論ですか☆」 太「はい…ま、ガールフレンド絡みの…お話だったんですけれども☆」 江「『出て行けって言ったばかりです』って言って、あの…皆さん、その場でも 『へえ…』っていうことになって…でも、その時にお父さんが そういうことだけを言ったんですよ。『太郎のことが心配だ…』」 太「うーん…」 美「だから『父親である必要はない』って…」 江「『母でいて欲しい』」 太「うん…」 続きます。 「オーラの泉の日記」 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
August 27, 2009 01:49:24 PM
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