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Noriko's Cafe♪

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罪と罰




~罪と罰のプチレッスン~


聖書の言う罪とは、私たち日本人の頭で考える罪とは違います。
聖書を読めば、法律を破って違法行為をすることだけが「罪」ではないことが分かります。
まずは、人が犯した、はじめての罪から見ていきましょう。



<はじめての罪>


神様がはじめに天と地を創造され、人を造られたとき (参照:天地創造)、
人は神様と話すことが出来ました。神様を知り、神様の愛の中で生活していました。
それはまだ、人が罪を知らなかったからです。


神様は、アダムとエバに、地球上のどの木の実からも取って食べて良いと言われました。
しかし、神様は、「善悪の知識の木」からは実を取って食べてはいけないと命じられました。
そして、その実を取って食べたその時、彼らは「必ず死ぬ」とアダムとエバに宣告されました。
(旧約聖書 創世記 2:16~17)


しかし、蛇(悪魔)の巧みな嘘と誘惑により、
エバは「善悪の知識の木」から実を取って食べてしまいました。
『その木の実を食べると、神様のように善も悪も分かるようになり、
自分も神様のようになる』、という悪魔の誘惑(ウソ)に負けてしまったのです。
夫アダムは、エバにすすめられて同じく禁断の実を食べてしまいます。


これが、人の犯した、はじめての罪です。
そして、罪がこの世に入ってきました。



<はじめての罪の罰>


エバを騙した蛇に向かって神様は言いました。


「おまえが、こんな事をしたので、おまえは、あらゆる家畜、
 あらゆる野の獣よりものろわれる。
 おまえは、一生、腹ばいで歩き、ちりを食べなければならない。」 (創世記 3章14節)


そして、神様は女に向かってこう言いました。


「わたしは、あなたのみごもりの苦しみを大いに増す。
 あなたは、苦しんで子を産まなければならない。
 しかも、あなたは夫を恋い慕うが、
 彼は、あなたを支配することになる。」 (創世記 3章16節)


そして、神様はアダムに向かってこう言いました。


「あなたが、妻の声に聞き従い、食べてはならないと、
 わたしが命じておいた木から食べたので、
 土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。
 あなたは、一生、
 苦しんで食を得なければならない。
 土地は、あなたのために、いばらとあざみを生えさせ、
 あなたは、野の草を食べなければならない。
 あなたは、顔に汗を流して糧を得、
 ついに、あなたは土に帰る。
 あなたはそこから取られたのだから。
 あなたはちりだから、ちりに帰らなければならない。」 (創世記 3章17-19節)



<神様の意味する罪って?>


「私は今までまじめに生きてきた。盗まないし、人も殺していない。
 だから、私は罪人ではない。」


人の考える罪人とは、法律に反することをした人々のことを言います。
殺人、窃盗、詐欺などが「罪」と言われるものです。


もちろんそれらも罪なのですが、聖書の言う罪は法を破るだけではありません。


聖書には、他人をうらやましいと思う心や、争い、ねたみ、憎む心など、
心にある罪のことも語っています。またこう書かれています。


「なすべき正しいことを知っていながら行わないなら、
 それはその人の罪です。」
(新約聖書 ヤコブへの手紙 4章17節)


高木慶太氏の「聖書とは?」にはこう書かれています。


『ところで、聖書のいう「罪」とは「犯罪」のことではありません。
 「犯罪」というのは、泥棒をしたり、詐欺をしたり、人を殺したりする、
 いわゆる刑法上の罪ですが、聖書でいう「罪」とはそれと全くちがいます。
 聖書でいう「罪」とは「神ご自身の完全な正しさ、清さの標準からはずれる
  こと」をいうのです。』


神様の完全な正しさから見ると、人はみな、罪人なのです。


「それでも、私はそんなに悪いことはしていない!
 私は、罪人じゃない!!」


そうおっしゃるあなたは、とてもおいしい湧き水をコップに入れて飲もうとしています。
その中に、私が一匹の死んだ小さな蚊を入れるとします。
死んだ蚊の浮いた水を、さっきまでと同じようにおいしく飲めますか?
あなたのコップには、死んだ蚊が浮いているだけで、99%以上のあなたの水は清いのです。


ですが、どうですか?


あなたが蚊を取り除いたとしても、もうその水が清くないことを知っています。
1%にも満たない、ちいさな蚊は、すべての清い水を汚すのです。
それと同じように、たった1つの小さな罪でも、あなたのすべてを汚すのです。


神様の目には、罪は大きさや量ではありません。
殺人は大きな罪で、うそをつくことは小さな罪ということではありません。
神様にとって罪は罪であり、神様の完全さ、正しさの前には、
どんないい人が立とうとも、私たちは全員、罪人なのです。


聖書はそのことについてこう説明しています。


アダムとエバは、彼らの犯した罪により、罪人になりました。
そして、私たちひとりひとりを含むすべての人々が、彼らの罪を受け継いでおり、
人はみな、罪人として生まれてきます。


たとえば、ポットに泥水が入っています。
ポットからグラスに水を注ぎます。
泥水のポットからは泥水しか出てきません。
それと同じように、不完全な両親からは、
不完全な子供しか生まれてきません。
完璧な人が一人もいないことは、私たちも承知のことです。
罪は、アダムから現在まで血を通って伝わって来たのです。


よって、アダムとエバのはじめの罪によって、
全人類に罪が広がり、人は生まれもって罪人となったのです。



『そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界にはいり、

 こうして死が全人類に広がったのと同様に、

 ーーそれというのも全人類が罪を犯したからです。』

(新約聖書 ローマ人への手紙 5:12)



<罪によって人が失ったもの>


罪の結果、人は神様と共に過ごすことの出来る、永遠の命を失いました。


神様は、「善悪の知識の木」から実を取って食べるその時、「必ず死ぬ」と言われました。
しかし、その実から取って食べた後も、アダムとエバは生き、その後、子孫を残しました。


では、神様の言った「必ず死ぬ」とは、アダムとエバの何が死んだのでしょうか。


聖書の意味する「死」とは、体の死だけでなく、神様と離れている状態のことを「死」と表現されています。体、魂、霊を人は持ち合わせていますが、
「善悪の知識の木」を食べたその瞬間、彼らの神様との間に罪が入り、神様と離れてしまったのです。それがここで意味する「死」です。


体は死にます。体は、霊が宿る、一時的な家です。
霊は、体が死んだ後も永遠に生きます。永遠にどこで生きるかです。
天国(永遠の命)か地獄(永遠の死)、二つに一つです。


また、神様は霊であると書かれています。
神様とつながっていた人の霊の部分が、罪によって死んで(離れて)しまったので、
神様がいるのか、いないのかさえ、人は分からなくなってしまいました。
神様の愛も体験出来ず、私たちひとりひとりに用意してくださっている
神様からの素晴らしい、特別な計画(生きる目的)さえ、
分からなくなってしまったのです。


ようは私たちの一部に穴があいてしまったのです。
人はその穴をうめようと、必死に探します。
お金で埋めようとしたり、恋愛や結婚で埋めようとしたり、
名声、この世の成功、ドラッグ、お酒。。。
数えればきりがありません。


しかし、このようなものたちは、一時的にしか私たちを満たしません。
だから、そのようなものを人はいつまでも追いかけ続けるのです。
満たされないからです。


それはまるで、塩水を飲むようなものです。
飲んだ瞬間は、のどの渇きが潤され満足しますが、
塩がどんどんその人を渇かし続け、
最後は死へと導きます。


その心の大きな穴を埋めることが出来るのは、
神様だけです。


神様を見つけるまで、人は人生の答えを探そうとします。
なぜなら、人はもともと神様とつながるべく造られたのですが、
罪があっては神様とつながることができないからです。
神様を知らずとも、「何かが欠けている」ということは
みんな分かっているのです。


どういうことでしょうか。
神様の愛と守りの中で平和だったアダムとエバですが、
罪が、彼らと神様との関係を切り離してしまいました。
聖なる神様は、罪と交わることができないからです。



    人                        神様
___________              ____________
           |            |
           |            |
           |            |
           |            |
           |            |
           |~~~~~罪~~~~~~|
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<では、罪の罰は何?>


聖書には、罪の罰は「死」であるとはっきりと書かれています。
(新約聖書 ローマ人への手紙6:23)


罪の罰の「死」とは、体の「死」を意味するだけではなく、
私たちの霊の死を語っています。
霊の「死」とは、神様との永遠の別れを意味しています。


私たちが自分の罪を背負ったままこの体が死ぬと、
神様の住まわれる天国に入ることはできません。
「清い水」が「泥」と交わることがないように、
神様の清い天国には、罪人は入ることが出来ないのです。


体が死んだ時、神様の前に全員が立ちます。そして、罪の裁判があります。
そこで自分の罪を背負ったままでいると、自分が罪の罰を負います。
聖書には、罪の罰=霊の死、これを、「二度目の死」と書かれています。
「一度目の死」が体の死で、「二度目の死」は、霊の永遠の死です。


霊の永遠の死の結果、神様と離れた場所で永遠に過ごすことになります。
神様と離れた場所、そこは、火の海とも表現される、地獄です。


永遠を天国で過ごすか、地獄で過ごすかは、
私たちの罪が赦されているか、赦されていないかにかかっています。
言い方を変えると、私たちは全員、罪の赦しを必要としています。


では、永遠に地獄で苦しむことが罪の罰なのであれば、
罪のあがないは、どのようにすればよいのでしょうか。


慈しみ深い愛の神様は、私たち全員に救いの手を差し出してくださっています。


神様は罪の罰は死でありますが、天国で永遠に生きる命は
イエス・キリストを通して、私たちに神様からのプレゼントとして
与えられていると書かれています。(ローマ人への手紙6:23)


なぜなら、私たちが死んで罪をあがなわなければならないのに、
イエス様は十字架に私たちの過去、現在、未来のすべての罪を打ち付け、
私たちの罪の身代わりとなって死んでくださったからです。


私たちは罪の赦しを受けるために、何をすべきなのでしょうか。
それは、イエス・キリストが自分の罪のために死んでくださったのだと信じることです。
隔たりのある崖を埋め尽くし、神様のところに行くには
神様の用意してくださった唯一の道、イエス・キリストの架け橋が必要なのです。


詳しくは、「救い」をご覧下さい。



<ご質問>


難しかったでしょー。
よく最後まで読んでくださいました。えらい!!
罪と罰に関するご質問はメールでお送りくださいね。





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