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今朝の長野は、一面の雪に覆われとても美しかった。
途中から、雨に変わったようで、思ったほど積もってはいなかった。バスが動かなかったらどうしようなどと、ちょっぴり心配していただけにほっとしたのもつかのま、お茶をすすっているはすみんに向かって、またお葬式なの、と母がつぶやいた。 昨年、12月に入ってから、身内だけでなく友人知人はたまた同じ職場の方々にも不幸があいついでいるらしい。 そういう年回りということか。 振り返ってみると、そういうことが重なる年というのは確かにある。(おめでたいことが続く年ももちろんありますよね) はすみんの考えでは、人の生き死にに、いいもわるいもないという考え方をしている。 人間は、自分の意志で生まれてくるわけではないと思うからだ。 そして、どのような亡くなり方をされたとしても、寿命なのだと思うことにしている。 実家から自宅に戻ると、バイト先からもどってきた娘が同じ職場で働いていた方が昨日亡くなったと聞かされたと話してくれた。 最後に、会ったときは特に変わりなく元気そうだったそうで、彼女にとってもその方と関わりがあった方にとっても寝耳に水といった具合だったのだろうと思う。 生きるものの宿命として、あの世といわれている所に戻る日が必ずやってくる。 そう、わかっていても、やはり身近な方(身内、友人、知人やお世話になった方々)とのお別れは、つらく悲しい。 先日、落ち込んでいる真っ最中と書いたのも、友達の死を聞かされたからだった。 悩みと書かなかったのは、もはやどうにもならないし取り返しがつかないことだったから。 主人が亡くなったとき、もっと何かしてあげられたのでは、と自分に自問自答していたことがあった、そのことだけを考えて生きていたともいえるほど長い期間同じことを繰り返し考えていた。 そして、自分なりにだした結論は、残された者にとってはつらく悲しい出来事も本人にとっては今生での役目を果たし、戻るべきところに戻るというだけなのかも知れないということだった。 そこには、つらい悲しいといったマイナス感情は存在しない。 戻るべきところへ戻るだけ、という考え方は残された者にとって唯一の救いになる考え方だとはすみんは思っているし、もし故人に託されたことや物があるとすれば、時期が満ちたとき代わりにさせていただこうと思っている。 あくまでも、それが故人の意志であれば、そういっためぐり合わせがいつか必ずやってくると信じているからだ。 はすみんは、いつかやってくるその日まで(121歳の予定)精一杯生き、たくさんの孫、ひ孫、玄孫、お世話になった方々に「私は幸せ」と一言お礼をささやきつつにっこり微笑んでからあの世に戻ろうと考えている。 今日という一日を無事に過ごせたことに感謝しつつ、、、。 そんな生き方が、はすみんの理想です。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
>戻るべきところへ戻るだけ、という考え方は残された者にとって唯一の救いになる考え方だとはすみんは思っているし、もし故人に託されたことや物があるとすれば、時期が満ちたとき代わりにさせていただこうと思っている。
>あくまでも、それが故人の意志であれば、そいいっためぐり合わせがいつか必ずやってくると信じているからだ。 そうだと思います。そうすることによって、またそうした機縁に氣づくことによって、逝かれた方の魂は私たちの中で生き続けてゆくのではないでしょうか。 私の尊敬していた叔父が亡くなった時、友人の方が次のような弔辞を紙に書いて残したのを思い出しました。(一部抜粋ですが)。 「死ぬ事はこの世から消えてなくなる事ではなく その人間が生きていたという事実を証明するものなのだ」 亡くなられた方のご冥福を心よりお祈り申し上げます。 (2005.01.17 22:04:17) |