テーマ:偏見・いじめ・差別(14)
カテゴリ:記憶
例えば、発達障害の1つのアスペルガー症候群は、相手の気持ちや状況を推し量れない脳の疾患。
性格が悪いのでも、意地が悪いのでもない。学校の勉強が出来ないわけでもない。 こんな質問をしてみる。 「姉が小学校に行ってる間に、弟が幼稚園から帰ってきました。 弟は、姉のおもちゃ箱から、姉のボールを出して遊び、自分のおもちゃ箱に片付けました。 学校から帰ってきた姉は、ボールで遊ぶ時に、どこを探すでしょうか?」 普通なら「姉のおもちゃ箱」だけれど、姉の立場で物事を類推するのが苦手な彼等は「弟のおもちゃ箱」と答えてしまったりするそうだ。 いわゆる「KY(空気読めない人)」と言われるけれど、鈍感な訳ではなく、こういうこと。 友達が家に遊びに来ていて、自分だけアイスクリームを食べていたなんて話もある。 母親が気付いて「そういう時は、お友達にもアイスクリームを出してあげなさい」と言うと、素直に出す。 一般的にそういうのは、性格が悪いとか、意地が悪いとか、気が利かないとか、言われちゃう…。 本人にそんなつもりはないのに、むしろ気が付けない自分を責めて落ち込む人で、優しかったりするのに…。 というのが例え話だけれど、私自身はアスペルガー症候群ではない。 ただ私も、性格や意地悪ではなく、トラウマや脳の疾患で、感情コントロールできなかったり口調が刺々しくなったりする。 …ということを、最近やっと自覚できつつある。 まずは本人が自分の特性を自覚し、気を付けて補正していくこと。そして、必要に応じて周囲にサポート(やガマン)をお願いする。 そう頭では分かっているけれど、トラウマや疾患でそうなっているとしても、その時に自覚するのは簡単ではない。 更に、 「性格が悪い」 「意地が悪い」 「頑張りが足りない」 「虐待とかいじめとか大袈裟。誰だって大なり小なり苦労している」 「何度も言うが障害者には見えない。ちょっと障害者だからって、いい気になってるんじゃないの」 だのと言われたこともあり、、、。 そうなると、サポートをお願いできる以前の話。 もちろん、友人付き合いなんて双方にとってムリ。 小中学校の頃のこと。 おそらく私には、今でいう特殊支援学級などの適切なサポートが必要だったのだろう。それがあれば、周囲とも仲良くやっていけたかもしれない。 そういった支援提供はなかった。 良くも悪くも勉強の出来る頭のいい子だったので、当時イメージされていた特殊支援とは違いすぎていた。 (小学校ではIQが学年トップだったと後から知った) 中一の時。 8時から朝活の時間だった。 数分遅刻することが多かった。 そうすると、授業が始まる8時半まで、男子達に殴る蹴るされ続けた。 次第に休み時間も暴力を受け続けた。次の授業が理科や体育や音楽だと、休み時間に移動するので、殴る蹴るされずに済んだのを覚えている。 自習授業は、男子数人に取り囲まれて殴る蹴るされるリンチタイムだった。女子トイレに逃げ込んでも、追い掛けてきて、上からバケツで水を掛けられたりした。 新調したばかりのメガネが見当たらず、裸眼で探し回って、やっと見付かったらレンズが傷だらけにされていたこともあった。 登校してイスに座って机の中にノートなどをしまったら、イスの上にも机の中にもイチゴジャムが一面にべったり塗りつけられていたこともあった。 そういうのは、誰が犯人かも分からない。 何千回「死ね死ね」と言われたのだろうか。何万回だろうか。何十万回だろうか。 それらが、中一の時は担任公認だった。 いじめられていることを訴えても、 「おまえが悪い!!!」 「まずおまえが自分の悪い所を直せ!!!」 と、いじめ側の暴力は完全に容認されていた。 なんとか遅刻せずに朝活に参加できると、担任が他の生徒達に、 「あいつさえいなかったら楽しいよなっ!!!」 などと聞こえよがしに言っていた。 「死ね!」「死ね死ね!!」 そう言われるのは自分が悪い。 自分の性格が悪い。 自分が直さないといけない。 直せない自分が悪い。 遅刻や忘れ物をしないなんて、他の人なら簡単にやれるのに。自分も困っているし、これだけ気を付けているのに、他の人の10倍も20倍も頑張っているのに、どうしても直せない。。。 「死ね死ね死ね!!!」 自分なんか生きてちゃいけないと、ずっと思っていた。 生きてちゃいけないし、別に生きていたい訳でもないのに、自殺することも出来ない。 だから一層、生きてちゃいけないと思っていた。 (この気持ちは、今でも拭えていない) あの時に「遅刻も忘れ物もADHDの特性で、本人なりに治そうと頑張っているから、大目に見てあげよう」と言ってくれる担任なら、リンチを受けずに済んだかもしれないし、学級崩壊にもならなかったかもしれない。 私の遅刻などを治した方がいいのなら、適切にサポートする必要があった。少なくともクラスメートのいじめやリンチで改善するものではない。 良くも悪くも私は頭が良かったので、いじめで勉強が出来なくなることはなかった。けれど、授業が成立しない教科もあったし、学級全体としては学力低下していただろう。 私が、もし普通の家庭に育っていれば、自分を守るために登校拒否していたかもしれない。 良くも悪くも虐待家庭だったため、家にいても結局殴る蹴るに変わりはなく、遅刻しても登校していた。 家から逃げるために登校し、学校から逃れるために帰宅した。 勉強はさておき、それで給食を食べていたことで、生きていた。 暴力に関しては、全て解離性健忘で、今も何も思い出していない。 記憶にロックが掛かっている。 殴る蹴るされていたという知識はあるものの、体験としては覚えていない。 今でも、何が性格で、どこからトラウマや脳の疾患の影響なのか、分からない。 自分の素直な感情なのか、トラウマや疾患で歪んだ感情なのかも分からない。 目の前のことを率直に捉えているつもりでも、その認知が歪んでいるのかもしれない。 解離性健忘を自覚したことで、もう自分の記憶さえ信じられない。同じように感情も、性格も、認知も、、、。 何が本当か分からなくて、自分の足元だけスコンと抜けて、どこまでもどこまでも真っ暗闇を落ちていく、、、そんな感じになる。 それでも、たまたま生きている。 あれだけの目に遭っても自殺出来なかったから、これからも自殺しないだろう。 解離性健忘を自覚した時は大ショックだったけど、次第に、生きるために脳はそこまでやるんだと感動に変わった。 私の脳は『生きろ!』と言っている。 まぁどうせ生きているのなら、なるべく楽しんで、なるべく笑っていたい。 トラウマや疾患を抱える私と付き合える人は、あまり多くはない。 それでも、仲良くできる友人と巡り会えていることが、ありがたい。 配慮不足や勝手な思い込みや決め付けで、言葉で殴る蹴るしてくる人は今もいる。けれど、別にそんなのと友人みたいに付き合わなくてもいい。ここは学校じゃないから。 そんな輩と10分いるより、友人と10分一緒にいる方がいいし、1人を選ぶことも出来る。 いじめは、中一の時が一番ひどかった。 そのいじめリーダーの片方は、私に散々「死ね死ね」言ってた割に、本人が交通事故で20歳で死んだらしい。 たまたま岐阜県内の交通事故死何百人目で新聞に載っていたそうで、珍しい名字なので友人が覚えていて、教えてくれた。 あんまり「ざまあみろ」でもなかった。最初に思ったのは、確か一人っ子だったので、ご両親もお気の毒にだった。 まあ、世の中ってのはそういう風に出来てるのかもな、と感じた。 先日、NHKで発達障害を取り上げた番組を見た。 ずっと、自分が感覚過敏であることを知らなかった。 更に、もしかしたらADHDかもしれない。ということで、少し前にCAARS検査を受けた。結果は次回の診察で告げられる。 感覚過敏やADHDについて調べるうち、それらの特性がいじめの原因だったことに気付いた。 大ショックだった。 自分に非があると思いこまされていたけれど、現実は、健常者による障害者いじめを、担任が正当化していただけだった。 障害を自力で治せるのなら、医者なんて要らない。 一方、感覚過敏などの特性がなかったら、虐待という過酷な環境下で生き延びるのはムリだった。実感。 そんなこんなで、しばらくずっしりと落ち込んでいた。 やっと、ここまで書けるだけ、気持ちをまとめられたところ。。。 感覚過敏がなかったら、妹たちを守りながら自分も生き抜くことは、おそらくムリだった。 PTSDなどの精神疾患は、生き抜いた勲章。 今の不便さは少し楽になって欲しい。もう少し元気になりたい。とにかく主人にいろいろ迷惑掛けっぱなしだし。 でも別に、健常者になりたいとは思ってない。 もし、試しに数日「健常者」になれたとして、便利になるだろうけど、いまいち味気なく感じそうな気もする。 普通の人って普通でしかないんだなあと、数日で飽きるかもしれない(笑) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2017/06/22 11:35:23 PM
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